第62回群像新人文学賞受賞作 『そこどけあほが通るさかい』 石倉真帆(著) (『群像』2019年6月号に掲載)
地の文も会話も全編が関西弁で書かれていて、読みはじめはややリズム感のない手触りで、そこが微妙な距離感になっていました。
しかしこれは、作者が自身の喋りに酔っていない証だともとれ、この登場人物にしてこの文体しかあり得ないのだと分かりはじめてからは、感じていた距離感は消え去っていて、もう作中にのめり込んでいました。
中盤から先の迫力に、とにかく鳥肌が立ちました。生々しい。
人間の感情が生々しい。これほど生きた人間が怒っている有様を、その血管がぶつぶつと切れていく音まで聞こえてきそうなくらい至近に感じられる小説を読んだことが、果たしてあったのだろうかと自問してしまいました。
物語は、閉鎖的な地方の小さな集落の中の一家庭内で巻き起こっていることで、語りである少女とその家族である父、母、兄、そして祖母が主な登場人物です。
人間の価値を家柄と学力の高さだけでしか受け入れない狭量で偏見に満ちた祖母(婆)により、家族が追い詰められていく物語、と言ってもよいのでしょうか。
相手をひたすら貶めるためだけに発せられているかのような祖母の言葉は、暴力そのものです。この祖母による言葉の暴力は、拳や刃よりも深く主人公の少女や兄、母達を殴り、斬りつけ、それが作品の中で怒りや悲しみの塊となり、生み出され、吐き出されていきます。
この怒りと悲しみにはとんでもない熱量があり、この熱量こそが本作品の魂であると感じました。
嫁だけでなく、本来なら可愛いはずの孫達にまで冷酷な言葉を容赦なく発し続ける、まさに”妖怪口悪”とでも呼びたくなるような祖母の捻じ曲がった人格の異様さに対して、不思議なくらい淡白に構えている父親(祖母の実の息子)もまた、ある種の異様さを持っているとも取れます。
この父親のように、描かれていることの外側にも作品はきちんと人間を描いていて、こうしたところも評価されている点であるだろうと思います。
また、ものすごい熱量の怒りや悲しみを表現しながらも、作品の随所にはユーモアがあり、やけくそになった人の哀愁が客観視されている印象もあり、作者自身は強い熱量で主人公達に関わりながらも、どこかでは冷静さを忘れていない感があります。
本作は、閉ざされた社会の中で懊悩する人間の姿を描いたもので、それだけにとどまるならば既視感のあり過ぎる小説となるところですが、それ以上に何かただならぬ、切迫した、得体の知れないものを奥に秘めている、そういう得体の知れない作品だと思いました。