春見朔子(著)
〔第40回すばる文学賞受賞作品〕
(集英社)
薬剤師の千景と、スナックで働くまゆ子。
高校時代の同級生で、仲の良かった二人は、まゆ子の勤務先でもある叔母のスナックで10年ぶりに偶然再会。 叔母の元に居候していたまゆ子に、千景が、「じゃあうちに住めば」と持ち掛け、二人は一緒に暮らすことに。 まゆ子は時々、叔母のスナックに働きにでかけるがほとんど部屋にいて、千景は、平日の昼間は働いている。 また千景は、大学時代に所属していた研究室の元教授(「先生」)と親しくしていて、頻繁に邸宅に訪れては二人で顕微鏡を覗きあう日々で、まゆ子が部屋にやってきても、それは同じだった。 ある日、千景が仕事に出かけていて、まゆ子一人の時、「先生」の孫(央佑)が、二匹のカタツムリと共に、部屋を訪ねてくる。 思わぬ訪問だったが、カタツムリの飼育を通して、まゆ子と央佑の、少し変わった交流がはじまる。 そんな中、千景たちの高校時代の同級生の結婚式が近づく。 旧友たちとの再会は、高校時代の記憶を呼び覚ますものであった。 それは、千景とまゆ子の、切ない「秘密」の思い出である。 |
自身の「性」や「感情」に違和を感じている二人の人物が登場し、交互の視点で物語が紡がれます。
社会的・心理的に男女の違いをさす”ジェンダー”を取り扱った作品であるともいえますが、より生物学的な性差をさす“セックス”と、両方の観点から捉えようとしているようです。
というよりも、捉えようとしても捉えきれない「曖昧で掴みどころのない」ものとして、千景もまゆ子も、それぞれの内面と向き合っています。
千景もまゆ子も、自分の内面(特に「性」)に対して違和を感じているようなのですが、だからと言って、「私は男だけど、女の心を持っているんだ!」とかいう形で、はっきりと心と体の相違を認識していて悩んでいるとかではなく、むしろ自分の抱えた感情とか感覚がどういうものであり、何を意味するのか、どう表現したらいいのか、分からない。「愛」なのか、「友情」なのか、単なる「快楽」とか「性欲」なのか……? ということに途惑っているのです。
選考委員の角田光代さんは、以下のように評しています。
作者が書こうとしているのはトランスジェンダーの問題ではなく、あくまで「言葉にあてはまらない」存在や関係や感情で、だからジェンダーを扱う小説が陥りがちな部分がまったくない。(『すばる』2016年11月号「選評」より)
つまり、これは特別な内面を持つ人間の話のようですが、実はそうではないのだと思います。
自分の感情が自分でもよく分からない、ということは、おそらく誰にでも時として起こりうることで、「性」の問題だけではないのです。
角田光代さんは、この作品を高く評価していますが(受賞記念では対談もされています)、ただ残念だった点があり、それは、”うまくまとめすぎなところ”だと指摘します。
顕微鏡をのぞく大学の恩師とのエピソードや、カタツムリを持ってあらわれる先生の孫、など、まとめようとすると既視感が生じてきて、小説から鮮度が失われる。(同上より)
同じく、選考委員の江國香織さんも、
「先生」の造形がやや甘いし、幾つかの小道具(論文とか、小動物とか)の効果が中途半端でもったいない(同上より)
としています。しかしながら、その上でも、
主人公二人が終始自然体であることが、弱点をおぎなって余りある長所だった。(同上より)
としています。
確かに、千景とまゆ子の日常の描写は、何気ないことの積み重ねなのに、妙に面白く新鮮で、途中からは切ない感情も自然と伝わってきました。
感受性の強い作品ですが、決して感傷に流されることもなくて、根底の所では、生物としての自分を、それぞれの主人公が意識しています。
彼女たちは、そこにグロテスクな自然の真実を垣間見るのですが、そこがとても面白いな、と思いました。
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