高橋文樹(著)
(第39回新潮新人賞受賞作品)
(『新潮』2007年11月号掲載)
70歳を超えた僧侶が、美貌の娘に狂い二人の子を成した後で涅槃に旅立った。それが、主人公アマネヒト(遍人)と姉(海)の出生物語。
姉弟は、母親の遺伝子を受け継いで、美しい外見で育つ。 長じるほどに、同性の嫉妬から孤独を知り、書物を読みふけるようになったアマネヒトだったが、18歳の時、高校に退学届けを出して、先に東京に出ていた姉を頼って上京する。 美貌を生かした仕事を勧められるが、性に合わなかったアマネヒトは、代理詩人を名乗り活動する。 そんな彼がブログを始めたことで、同じようにブログで文学活動をする「破滅派」の存在を知る。 文学青年アマネヒトは、「破滅派」のメンバーたち(皇子、ほろほろ落花生、貯蓄、潮さん……)とに迎えられ、代理詩人の活動を続ける。 だが、やがて「破滅派」メンバーの潮さんと肉体関係におちいったアマネヒトは、潮さんの妊娠を知って……。 |
冒頭一行目を読んだ時点で、その先を読むべきかどうか迷ったのですが、結局読んでみることにしました。
最後まで読むと、この作品全体が、アマネヒトの創作物であるということが分かります。これは、やがて生まれてくる自らの子供(アウレリャーノ)に、アマネヒトが宛てて書いた文章(小説)なのです。
どの選考委員の方も、それぞれの批判的な意見を持ちながら、それでも受賞作としておかなければならなかった、この作品の魅力とはなんでしょうか?(町田康さんは、どうも受賞に反対だったようですが)
小川洋子さんは、次のよに述べています。
しかしこの作品には、どこか無下に突き放せない哀切さが感じられる。しかも、未成熟な者たちが思いがけず懸命になってしまうからこそ発せられる、哀切さである。この、“思いがけず”の一点を評価して、私は受賞に賛成した。(『新潮』2007年11月号 選評より)
阿部和重さんは、
一節読むごとに、おまえ本気か? と作者に問いかけてしまいたくなるほどに、あまりにも青くさい自己陶酔的な表現が終始くりだされる。(同上より)
などとしながらも、
(中略) 最後まで読み通せば、この全面的な拙劣さが、じつは内容上の要請であったことが明らかとなる。(同上より)
とし、
(中略) 無残なまでに痛々しい青春の物語は、高度な詩的感性とは無縁の方法でもって、文学への素朴な憧憬をただ謡いながら、勢いにこそ重点を置いて書かれねばならなかったというわけだ。(同上より)
として、表現上の”拙劣さ”を、むしろ必要不可欠な要素として肯定的に捉えているようです。
浅田彰さんは、
粗雑なところもあるとはいえ、この作品が小説に不可欠な多様性をはらんでいることは確かだ。(同上より)
などとして、受賞作に推していて、作者のこれからに期待を寄せているようでした。
ちなみに、作品の題名にもなっている「アウレリャーノ」ですが、これは作中何度も出てくる、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』の登場人物からきているものです。
もう一つちなみにですが、この第39回の新潮新人賞の評論部門では、
大澤信亮さんが『宮澤賢治の暴力』で受賞されています。
大澤信亮さんは、第49回の新潮新人賞の選考委員になられています。
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