さて、第1回「文学新人賞 を ぜひ とって みたい!! 純文学系新人賞を過去受賞作から研究してみました」です。以後、勝手ながら趣旨を要約しまして「tori研」とさせて頂きます。
作家を志して新人の文学賞に応募を重ねている人は決して少なくないはずです。
いかんせん、私自身も過去数度応募し、なかなか手ごたえのない中で、どうすれば最終選考にまで残れるかと、頭を抱えている次第です。
やみくもに書いても駄目だ……。というわけで、だったらせめて研究してみよう。手に入る資料としては、過去の受賞作品や選考委員の方々の書いたものを読むしかないだろう。
というわけで、この趣旨に基づいて、過去の受賞作品や、選考委員の方々のご意見などを選評を基に、卑小な私ごときですが、おこがましくも傾向と対策を独自研究してみました。もちろん、素人の研究ですからどこまで的を得た結論に到着できるかは未知数ですが、作家を志して日々文章修行に励んでおられる同志の方々(!)の、ささやかな手掛かりになれば……、と思い、ここに研究をまとめてみました。
では早速、本題に入りたいと思います。
第一弾としまして、
「文學界新人賞 を ぜひ とって みたい!!」 をやってみたいと思います。
文學界新人賞は、第一回目の受賞者である石原慎太郎さん(「太陽の季節」)をはじめ、丸山健二さん、青来有一さん、藤野可織さん、長嶋有さん、選考委員でもある松浦理英子さん、吉田修一さん、円城塔さん等を輩出しており、権威ある新人文学賞の一つです。
まずは過去の受賞作の内から、とりわけ直近である第115回(2012年)から第121回(2016年)までの作品に焦点を絞って、読み込んでみました。
【第115回】
「隙間」(守山忍) → 読書感想はこちら
「最後のうるう年」(二瓶哲也)
二作とも、満場一致で大絶賛の上の受賞……というわけでは必ずしもなかったようです。ただし、両作品とも文章力は高く評価されていました。
(以下、選考委員の方のご意見は、『文學界』2012年12月号 文學界新人賞選評より抜粋、一部参考にさせていただきました)
まず「隙間」ですが、”変さが足りない”という角田光代氏の意見、谷崎潤一郎を模倣したのだろうとする松浦理英子氏の意見”「卍」や「鍵」を下敷きにしたのだろうけども、人物描写も心理描写も乏しいので谷崎にある色気やサスペンスが生まれない”などは、かなり手厳しいです。
谷崎潤一郎の名前は、他の選考委員の間からも出たので、そういう「大物を匂わせる作品」であるというだけで、(しかも文章は良いとされているのですから)本当は高レベルなのが分かります。けれど、最終選考ともなると、それがむしろ加点に繋がらないという厳しさもあるようです。
「最後のうるう年」はラストでの視点の入れ替えに賛否があったようで、これを「オチ」と受けとられた松浦寿輝氏は、評価を低くしています。
なお、20年という時間の経過を扱った本作品は、20年前と現代の渋谷の書き分けがされていないことや、主人公が仕事を辞める理由が「田舎に帰って親の介護をする」というものであることの陳腐さを角田光代氏から指摘されています。
選考委員の方のご意見で一番印象に残ったのは、花村萬月氏ーー
”今回読んだすべての作品は文章的には高水準でした。けれど、じつは、受賞作なしも議論されたのです。その最大の理由は、新人ならではの提示がほとんど見られなかったことです。”
「新人ならではの提示」これが、一つのキーワード、もしくは指標ではないでしょうか。選考委員たちは、文章の上手さ自体ではなく、実はこれを一番求めている!
……と、私は確信しました。どんなに文章が上手くて谷崎潤一郎のような小説が書けていても、所詮二番煎じと言われたり、まだまだそこまでじゃない、と一蹴されてしまう。それが新人文学賞の現実なのです。運が悪ければ、この二作は受賞作に選ばれなかったかもしれません。この次の第116回が、「受賞作なし」とされた現実を考えれば、あり得ないことでもなかったのです。
花村氏によると受賞させたのは、文章的に完成度の高い作品群が揃っているのに受賞作なしとしてしまうと、次回の選考時のハードルがあがってしまうから。という理由だったみたいです。
【第116回】
”わたしは「才能」など信じていない。強いて言えば、書きたいと思いつづけることだけが「才能」だろうーー(略)―-書きたいことがないなら、書かない方が良いのではないか”(『文學界』2013年6月号 文學界新人賞選評より)
これは、第116回当時の選考委員の一人、松浦寿輝氏の言葉。第116回は、なんと「該当者なし」という結果。選考委員の選評からは、嘆きとも苛立ちともつかない言葉が連なりましたが、これもその一つ。
該当作のなかった回の選評なんかどうだっていいよ、などと考えないでください。これは貴重な意見なのです。なぜなら、「なぜ選ばれるのか」と「なぜ選ばれないのか」は、実は同じことなのです。前者はそれを持っているから選ばれて、後者はそれを持ってないから選ばれない。そういうことなのだろうと思うのです。では、それとはなんでしょう?
私は、「書く必然性」だと思うのです。そこに必然性があるからこそ、作者は小説を書き続けられるのですし、その情熱も持ち続けることが出来る。けれど、必然性がそれほどなくても、一応小説は書けてしまう。そして鋭い選考委員の目は、そういう「一応こんなん書けました」的な淡いものは簡単に見抜いてしまう。そして、「書きたいものがないなら書かない方がーー」などと一蹴されてしまうんです。
同じく選評での吉田修一氏の言葉。
”あくまでも個人的な意見だが、小説は不正解でいいと思う。少なくとも自分を正解だと思い込んでいる人よりは、不正解だと知っている人の方が信じられるような気がする。” (上記同より)
なんか、分かったような分からぬような……。でも、これって励まされてるんだと思うんですよね。吉田氏はこれから作家を志す応募者たち(つまり我々)に、この言葉を投げてるんですから。
……と、
ここまで、どれほど参考になっているでしょう?(汗)
今回はいったんここまでとしますが、研究は順次投稿していきますので、今後もよろしくお願いします_(._.)_
次回は第117回からを研究してみたいと思います。(おそらく、近日中にお目にかかれるかと……)
では、次回またお会いできることを楽しみにして、同志のみなさん、共に頑張りましょう!!(-ω-)/
【第122回文學界新人賞について】
締切 | 2016年9月30日 (当日消印有効。Web応募は2016年8月1日より受付開始、9月30日24時締切) |
枚数 | 400字詰原稿用紙70枚以上150枚以下 |
選考委員 | 円城塔、川上未映子、松浦理英子、吉田修一、綿矢りさ |
特色など | Web応募ができることで、印刷にかかる諸費用等の節約が出来てとても助かります。年一度の募集になったのが残念です。 |