新潮 2018年 09 月号

『ジャップ・ン・

  ロール・ヒーロー』

   鴻池留衣(著)

(『新潮』2018年9月号に掲載)

 

 

デビュー作の『二人組み』から注目している鴻池留衣さんの作品とあって、かなり期待して読みはじめました。

前作の『ナイス・エイジ』から、作風というか、作家のイメージそのものが変わったような気がします。新時代の若者らしい軽さと斬新さを備えてきた、という印象です。それでいて、どこかに泥臭いグロテスクな感触も隠し持っている、そういう作家に育ちつつあるのではないでしょうか。

『ナイス・エイジ』もそうでしたが、SNSがもはや生活の一部にまで浸透した今時の社会や、そこで生きる若者たちの姿が描かれています。

本作では、インターネット上で公開されていて誰もが書き込め上書き編集できて、誰もが自由に閲覧できる、そして大概の事柄はここで検索出来てしまうという実に便利なツール、ウィキペディアを、表現の媒体として使っています。

面白いのは、このツールが持つ『大まかな所は信用できても、中には噓や間違った書き込みもあるから、全てを容易に信用することもできない』という、便利さと背中合わせのマイナス事情を逆手に取っていることです。

この『本当っぽいけど、もしかすると真っ赤な噓かもしれない』という虚構と現実のすれすれなところが、物語の本質である『噓』とリアリティのバランス感覚とよく似ていて、ほどよく作用しているかと思いました。

物語の主人公(主人公など存在しないのかもしれませんが)は、ダンチュラ・デオというバンドのボーカルの「僕」(「僕」というアーティスト名)なのですが、小説のほぼ全文であるウィキペディアの書き込みを編集した人物がこの「僕」と同一人物なのかどうは分かりにくい。

分かりにくいというのは、分からないように巧妙に仕掛けられているからに外ならず、これは人称の特性を利用した言葉遊びのようなものかもしれませんが、ここにウィキペディアを使った物語の不気味さというものが内在されていると言えなくもない、とも思いました。

そもそも、ダンチュラ・デオというバンド自体、存在のあやふやさを内在したままに存在し続けています。

これはどういうバンドかというと、1980年代に実在していたとされる同名のバンドのコピーバンドなのです。

オリジナルの方のダンチュラ・デオというのは、かつてCIAのスパイとして諜報活動をしていて突然消息不明になったという、不気味で胡散臭い経歴を持つバンドです。

つまり、オリジナル自体、最初から存在していなかったかもしれないのです。

だから総じてダンチュラ・デオというのは、一人の男の妄想から生まれた幻想かもしれない、全ては嘘八百なのかもしれない、そういう危うさを孕んだバンドなのです。

けれど、ウィキペデイアの中で、この嘘八百の世界は暴走をはじめます。そこには妙なリアリティが作動しはじめ、現実か非現実なのかの境界はさらに混乱していきます。

一部卑猥な描写や、映画の中でしかあり得ないような展開が織り込まれていたりしますが、そこに含められた低俗さや、文学とは異質な要素を持ち得るものが、ある一つのリアリティに成り得ようとしている、そんな段階を試みた一作だったのかな、と思います。