第51回芥川賞受賞作品
『されどわれらが日々』
柴田翔(著)
(文藝春秋)
この作品が芥川賞を受賞したのは1964年で、当時は大ベストセラーとなりました。
通称「六全協」と言われている、正式には「日本共産党第6回全国協議会」という会議が行われた1955年前後の、若者の青春を描いた作品です。
私は当時を知りませんが、東大で大学紛争が起きて学生が安田講堂を占拠した事件(東大紛争)が1968年から1969年なので、その時代の少し前の世代の空気を伝えるものでもあります。
(物語の主人公が東大生で、彼の視点からみた同じ世代の若者たちが、共産党員として闘争に巻き込まれていく姿が描かれているので、なんとなく東大紛争の話と混同してしまいそうですが、10年以上の間隔があります)
作品を理解するために「六全協」というのがどういうものだったのか、ということが重要になってくるのですが、それまで武力に頼って学生なども巻き込んで活動していた共産党が、急に方針転換して平和路線を打ち出したというのがこの会議の内容で、それまで党の方針だからと闘争に参加し、山村に潜んで地下活動まで行っていた学生党員たちは、自分たちが信じて戦っていたものが突然壊されたのですから、当然混乱します。
「これまで自分たちがやってきたことはいったいなんだったのか?」という喪失感を伴う衝撃を、彼らは受けたようです。
本作品は、そういう信じるべきものを見失い、人生の虚無を突きつけられた若者たちの苦悩や、そこ(虚無)から抜け出そうとする葛藤が描かれています。
個人である主人公を軸に小説は展開されますが、「世代」というものが強く意識されているところが、この作品の特徴でもあり、また魅力でもあるのだろうと思います。
主人公の個人的な思考の流れが小説の全てであるようでいて、その彼自身が「世代」というものに大きく捕えられ簡単には抜け出せない存在であることを認めています。
”私たちの世代は、きっと老いやすい世代なのだ”(『されどわれらが日々』より)
という終章で出てくる言葉が印象的です。
その老いやすい世代から抜け出そうとする別れた恋人の姿が、実に若々しく美しいものの象徴であるように描かれているのは、そこに主人公の共感があるからなのでしょう。
この共感は、おそらく全ての同世代人に向けられたものでもあるのだとも思います。
「世代」は、主人公を捕らえて老いやすくもしているものですが、同時に同じ時代、同じ空気を吸って生きる同世代人たちにしか共有できない感覚があって、そこにある種の特別なノスタルジーを感じます。