『おらおらでひとりいぐも』
若竹千佐子(著)
(『文藝』2017年冬号に掲載)
夫に先立たれ、息子や娘たちとも離れて暮らす70代女性(桃子さん)の、自問自答。
若き日に訳あって故郷を飛び出し東京に暮らす桃子さんですが、桃子さんの頭の中には、ずっと使っていなかった東北弁を話すもう一人の桃子さん(おら)がいて、しきりと話しかけてきます。
そこで成立してくる標準語と東北弁の混じりあった文体が、なんとも言いがたい味わいを醸していて、印象深かったです。
これは、方言の豊かさ、面白さを示していると同時に、標準語と対比させたり混ぜ合わせたりすることで、日本語が持っている”潜在的な力”のようなものを、再発見させてくれるものでもあったかと思います。
特にはっとさせられた場面の一つに、「食べらさる」という桃子さんの祖母が使っていた日本語を取り上げたくだりがあるのですが、この言葉が、受け身使役自発と、三態が混淆していて奇妙な言葉であると指摘しているのです。
食べるのは桃子さんですが、”桃子さんをして自然に食べしめる“といった感じで、桃子さんの背後に、桃子さんならざる者の存在を感じるというわけです。なかなか、面白い言葉だな、と確かに思います。
この奇妙な受け身使役自発の関係は、桃子さんと桃子さんの心の声(おら)との関係のように、客観的な存在でありながら同時に自分でもある者同士の、それこそ説明しにくい微妙な、切っても切れない関係を連想させてきて、この作品を象徴しているんじゃないか、とさえ思いました。
本作は、三人称で書かれていますが、限りなく一人称に近い視点だと思います。
まず桃子さんという主人公がいて、桃子さんの行動を見守る語りの存在があり、一方で桃子さんという人物の中にいて主体的に意見を述べてくる「おら」なる存在がいる。さらに桃子さんの中には、「おら」以外にも声を発してくる大勢の存在がいて、これら全てが一人の人間の脳内で起こっている出来事である、という感覚で読めます。(私はそのように読みましたが。そう読まない読み方もあると思います。本作は、実に多面的な読み方ができると思います)
「食べらさる」という言葉が象徴するような、一人何役もの状態を繰り広げている状態は、自我の世界の混沌そのものではないでしょうか。この混沌とした状態を、文体と切っても切り離せない流れの中で、自然と立ち上げて展開してしまっているところに、この作品の妙がある気がしました。
また、作者の若竹千佐子さんが、63歳という年齢であることも、作品の味わいに深く関わっているように感じました。
作者の現在より一回り上の年代である70代女性の内面世界を描いているのですが、不思議なほどに軽やかで若々しい印象です。
老いていく日々の中でも、観察し思考しつづけることで新しい発見を体験し、”老いていく”こと自体さえ、それまで知らなかったことを知っていく機会と前向きにとらえている桃子さんという主人公の女性がいて、これが未来を見据えて生きている作者の姿に重なります。
この前向きな「肯定」には、広がりを感じました。
「老い」が一般的に考えられているように、ただ閉じていくだけの消極的なイメージではなく、限りない可能性を秘めた未知の段階というイメージとして捉えられていて、そこに発見の喜びが付加される。そういう逆転の作品でもあったかと。
本作は、第158回芥川賞の候補作にもなっていて、非常に期待できる新人作家の誕生です。