群像 2017年 09 月号 [雑誌]

『雪子さんの足音』

 木村紅美(著)

(『群像』2017年9月号掲載)

 

 

 

 二十年前、が住んでいた「月光荘」の大家の女性(雪子)が死んだ。

八月の終わり、薫は出張先のホテルの朝刊で、そのことを知った。

”眠るように死んでまだきれいなうちに下宿人に見つかる”というのが理想の死に方だと、かつて言っていた雪子だったのに、死因は、熱中症で、死後一週間経って親戚に発見されたらしい。

出張先での仕事を終えた薫は、一日帰宅を伸ばし、「月光荘」へと足を向ける。

 

戦争を生き抜いた世代である川島雪子(90歳)の訃報から、一気に物語は二十年前に引き戻されます。

はっきりとした年代は分かりませんが、まだ携帯電話が普及してないようなのと、会話の中に登場するJpopのアーティスト名などから、90年代のはじめごろだろうか、と思います。ということは、平成の初頭でしょう。

当時、大学生だった主人公のは、どこにでもいそうな若者で、さほどの悪人ではありませんが、外面がよく打算的で、女を外見的な価値基準でみてしまう傾向があるようです。

夫を亡くし、息子と二人暮らしだった雪子でしたが、その息子も亡くします。

息子を亡くした後の彼女は、急速に薫に近づき、なにかと世話を焼こうとします。

が、薫にはそれが度を越した親切の押し売りにしか思えず、辟易してしまいます。その反面、打算的な人間なので、ただでなんの見返りもなくもらえる食事や金銭を、かたくなに拒むことができません。

そこに、同じく「月光荘」に住んでいる薫と同世代の女性「小野田さん」の濃厚なアプローチも加わり、彼女たちのむき出しの「愛」は、薫を追い詰めます。

これは、「喪失」の物語ではないかな、と私自身は感じました。

物語りの最後で、雪子や小野田さんを遠ざけてしまったことを、薫が後悔するようなくだりがあり、人と人が、本来あるべき姿で正しく関わりあえなかったことを、二十年分の喪失として捉えているのではないかな、と思うのです。

これは、平成という時代を象徴している「喪失」でもある気がします。

昭和の終わりごろには既に、人と人との関りの希薄さが社会的な傾向としてあったと思うのですが、だからこそ、薫が大学生だったころの時代というのは、もうすでにあまり他人と密に関わらなくなっていて、供給過多な愛情というのは、むしろありがた迷惑な行為として受け止められがちになっていたはずです。

薫が、雪子や小野田さんにとったような態度は、むしろこの時代以降の、割とスタンダードな他者との距離の取り方であり、そのことが招いた「喪失」は、同じ時代を生きた現代人の多くが共有している「喪失」なのではないかな、と思うわけです。

そういう視点で読むと、『雪子さんの足音』という題名が、とても奥ゆかしく、どこか愛おしく響いてきてなりません。

他者と寄り添い心を通わせることを、そっと密やかに望む。そんな心の声にも似た、足音だという気がします。