『海亀たち』
加藤秀行(著)
(『新潮』2017年8月号掲載)
ウェブ広告の営業マンだった「俺」(坂井)は、営業先の美容室で、一枚の写真に目がとまる。
それは、美しい海辺の写真だった。 ベトナムのダナン。 新天地を求めて日本を飛び出し、ベトナムで成功している美容師が送ってきたものだという。 強く心を惹かれた「俺」は、こういう海辺に店を構える、という新しい自分の人生のについて、考えるようになる。 ウェブ広告の営業の仕事に疑問を感じていた「俺」は、魂の求めるままに会社を辞め、希望に燃えて、ダナンへと旅立つ。 |
第156回芥川賞候補になった『キャピタル』に続き、本作も東南アジアの風を感じる一作です。
私は、サマセット・モームの『月と六ペンス』を、頭の片隅に思い出しながら読みました。
「海亀」というのは、海外に出国していて、成功し、富を抱えて帰国してきた人々を指す言葉のようです。主人公の「俺」が、雇われることになるのも、香港系カナダ人の男(デイビッド)で、彼は成功者です。
ある一枚の海辺の写真との運命的な出会いをきっかけに、勢いだけでベトナムにやってきた「俺」は、ゲストハウスの経営に乗り出しますが、失敗し、一時は全てを失います。
そんな彼ですが、デイビッドや、地元で知り合った友人神林などとの交流をきっかけに、自力で生き抜く術を模索していきます。
日本人が日本語で書いた小説であるのに、多国籍な空気感が漂う作品で、国境を越えて通じる感性があると思います。
そこに描かれるのは、混沌とした世界――貨幣経済(市場)の渦中――で躍動している、今、この現在を生きている人々の姿です。
主人公がやがて行き着くのは、市場の露店で行われる経済活動(商品を売り、商品を買う)という、実にシンプルでアナログ的な行為です。
この、単純さと直接さは、東南アジアに漂う野性味に満ちた活力と一体化していて、特に生き生きと描かれていると思いました。
主人公の「俺」が、たんぽぽの綿毛のような軽さで吹き飛んでやってきたベトナムの地で、現実に向き合い、やがて彼なりの慎重さを持ちはじめてくるあたりには、臨場感があり、引き込まれました。
文章の美しさというのも、加藤秀行さんの作品の魅力の一つだ、と『キャピタル』を読んでから感じていることですが、本作も、しかりです。