伯爵夫人

29回三島由紀夫賞受賞作品

『伯爵夫人』

蓮實重彦(著)

(新潮社)

 

 

帝大入試を間近に控えた旧制の高等学校の生徒である二郎は、ある夕刻、劇場街で見かけた「伯爵夫人」に声をかけられ、彼女に誘われるまま、ホテルの回転扉を潜っていた。

どうやら、二郎の屋敷に住み着いているらしい伯爵夫人という出自もなにも分からない、謎めいた中年の女は、祖父の妾らしいのですが、それも実際、定かな話ではありません。

いったいどういう流れで、二郎の屋敷に彼女が住むようになったのかも、よく分からないのです。

戦争に関わる特殊任務を遂行する高級娼婦だったという、伯爵夫人自身の告白も、何かをはぐらかすための噓かも知れないし、彼女と二郎との間にある真実も、最後には煙に巻かれたように掴み損ねる。

作品の最も根幹にあるのは、「エロスと戦争」という、一見相いれないテーマですが、かつて活動写真と呼ばれていた頃の映画の余韻が漂う気配の中では、不思議と成立してしまいます。

ここで登場してくるエロスは、いかにも明け透けで、言うなれば「スケベ」と一刀両断に切り捨ててもよさそうな類のものですが、舞台装置となるホテルの奇妙な空間性や、伯爵夫人の持つ「謎に満ちた」不条理感が、全てを抱擁しているので、なぜか受け入れざるを得ないような気持になってしまいます。

(私は、この伯爵夫人の有する「不条理感」は、戦争の持つ「不条理感」と繋がっている、ないしは全く無関係ではないと、思っているのですが)

なにか真面目なことを真面目に話し出すことを、徹底的に拒否してくるような、そんな作品である気がして、戦争の足音の聞こえる夕刻に、噓と謎に満ちた女が、性の衝動を抱える若者をからかい、一時の愉楽に沈む、そんな映画を観ているようでもありました。