こんにちは。ぼやぼやしているうちに、すっかり年末ですね(´-`)
第8回目の『tori研』です。
今回は、文藝賞の、第49回~第52回(2012年~2015年)を、まとめてみました。
以下が受賞作の一覧です。
第49回(2012年) |
「おしかくさま」谷川直子(→読書感想はこちら) |
第50回(2013年) |
「世界泥棒」桜井晴也(→読書感想はこちら) |
第51回(2014年) |
「死にたくなったら電話して」李龍徳(→読書感想はこちら) |
「アルタッドに捧ぐ」金子薫(→読書感想はこちら) |
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第52回(2015年) |
「ドール」山下紘加(→読書感想はこちら) |
「地の底の記憶」畠山丑雄(→読書感想はこちら) |
【第49回】
「おしかくさま」谷川直子
震災の影響を、書く手側も選ぶ側も、意識無意識を問わず負わされた年だったのではないでしょうか。受賞作の「おしかくさま」にも、その影はちらついています。
心を病みがちな現代人の、生きる拠り所を探る作品ではなかったかと、思います。47歳という、作者の分身であるような主人公が自然体に幼くて、共感をそそる面もありました。
非常に魅力的な文体で、登場人物や設定の一々も可笑しくてどこか哀しく、万人受けのする作調でありながら、「何が何でも、この作品だけは!」というくらいの気概で押している選考員の方はいなかったようです。
(作者の元夫である高橋源一郎さんは、もっと押したかったかもしれませんが、この回では投票から退いています。)
個人的には好きな作品ですが、直面している問題と真っ向からは対峙していない感じがして、そこがなんとなく選考委員たちの(実力は認められながらも)真の共感を得られてはいないのでは、という気がしてなりません(実際に会って、彼らに直接聞けたらいいんですけどね)。
山田詠美さんが、選評の中で、ちょっとだけチクリとすることを述べられてます。
――(略)書き慣れているし、リーダブル。そつもないし、万人向け。しかーし! 新人賞の魅力って、そこでしょうか。もっと野蛮でつたなくても、その作者だけのチャームで、ぐいぐい押して来るものがあれば、それを……
(『文藝』2012年冬号 選評より)
これを読んで、皆さんはどうお思いになるでしょうか。
確かに、「おしかくさま」は、商業的に完成されている、という感じがする作品で、多くのファンを勝ち得そうです(実際、勝ち得たのだと思います)が、文学新人賞の選考の場では、まったく違う視点での評価や期待が存在している、ということ。なのでは?
【第50回】
「世界泥棒」桜井晴也
不思議な作品でした。
少年たちが放課後の教室で拳銃で決闘をし、どちらかが死ぬまで打ち合いをする。隣町では戦争が起き、夜の公園には死んだ子供の幽霊が漂う……。
現実世界とリンクしながらどこか違う時空を漂っているかのような、おぼろげな世界。生と死、戦争と日常、人間の本質について、この世界そのものの「ありかた」について、さまざまな疑問の投げかけや、それに答えようとする思考があり、ぎょっとしたりぞっとしたりするような描写や比喩で溢れている。
出だしから終わりまで、圧倒されるほどの言葉の分量を感じました。作者自身が書きながら思考していて、読者は作者と歩調を合わせながら、同じ問題(テーマ)について、延々と考えを巡らせていく、という作品だったように感じます。
分量の割に疲れなかったのは、作者が意図的に難解な語句や漢字の使用を最小限に抑えていたからではないでしょうか。
「世界」というものを、客観的に捉えおくために、敢えてSFチックな舞台設定をしたのかな、とも思えます。
とにかく、スケールの大きな作品でした。
どうせかくなら、大きく描いた方がいいですし、誰も知らない自分だけの未知の世界の構築というのは、実際面白い作業だったのではないでしょうか。
選考委員の中で、星野智幸さんは、この作品の言語感覚に疑問を投げています。
どうしても私が引っかかってしまったのは、言語の感覚の問題である。比喩がことごとく的を外しているだけでなく、雰囲気だけで安易に選ばれたように感じられる言葉が多すぎる。(『文藝』2013年冬号 選評より)
前回の受賞作「おしかくさま」に比べると、こういう未熟さは孕んでいる作品なのだと思います。それでも、受賞されたのは、なぜでしょうか。
星野智幸さんは、次のようにも述べられています。
ただ、逆に言えば、それだけの欠点を持つにもかかわらずこの小説は読む者を圧倒する力で存在しており、それは評価されてしかるべきだろう。(同上より)
【第51回】
「死にたくなったら電話して」(李龍徳)は、現代的でリアルな作品でした。
人間の心の奥底にある「悪を欲する心」(悪欲?)が、刺激される、毒の強い作品です。人間のエゴを描き切っていて、どこまでも暗く哀しいですが、それでも読みだすと終わりまで行き着かずにはいられない、中毒性を伴う毒なのです。
”徹底して安易なる「奇」を回避したからこそ立ち上がってくる真の「奇」”という、藤沢周さんの選評での言葉が印象的です。
他の選考委員の評価も非常に高い作品でした。
それに対し、
「アルタッドに捧ぐ」(金子薫)は、前年の「世界泥棒」にもどこか通じるような、趣きがあったと思います。
現実と空想が、境界線を失くし、同じ線上にあるかのような錯覚。それでいて、現実は現実、空想は空想という一線もどこかには存在していて、本当に稀有な世界です。そして、決して同空間上に存在するはずのない、空想の生き物と主人公が生活を共にします。まるで、騙し絵を読んでいるような気配。
まったく毛色の違う二作が同時受賞でしたが、本当にレベルの高い二作だと感じ入りました。
これだけの水準があるんだと、文藝賞の凄さを痛感した年でした。
【第52回】
この年も、「ドール」山下紘加と「地の底の記憶」畠山丑雄のダブル受賞です。
「ドール」は、非常に内向的な作品です。
主人公の少年は、現実世界で受ける鬱屈のはけ口を求めるように、大人の(性的な)玩具である人形に固執していきます。やがて、この人形の処女性を友人に奪われることで、少年の世界はさらに暗く捻じくれていくのです。
ネガティヴな反応を読み手に与える要素に満ちていながら、文章の力でプラスに反転させ、小説作品として見事に成立させた(『文藝』2015年冬号 選評より)
と、山田詠美さんは選評で評価されています。保坂和志さんだけは、”私の最も嫌いなタイプの小説”としていますが、他の選考委員の評価は高かったようです。
「地の底の記憶」は、”物語が主役”、と言われた作品でした。
主人公の設定が小学生というのが少し無理のある印象でありながら(ここを指摘する選考委員も、やはりいました)、小説が、土地やそこで生きた人たちの「物語」をはじめると、急に生き生きと脈打つ感覚があり、引き込まれます。
描かれている土地や人物などは架空であるのに、そこに歴史的な事実や出来事などを織り交ぜることで、とても作り物とは思えない完成度の高い物語が紡がれていくのです。
この「物語」から時を経て、そこに再び関わっていく主人公である小学生たちの世界を巻き込んでいき、さらに新しい物語を編みこんでいくという構図が、よくできています。ただし、物語やディティールの一つ一つが、あまり深まらないという欠点もあったようです。
この作品にも、人形が出てきて、受賞作の二作とも、「人形繋がり」なのが、ちょっと不気味な年でもありました。
【まとめ】
第49回から第52回までを、復習してみましたが、第51回の「死にたくなったら電話して」(李龍徳)と、「アルタッドに捧ぐ」(金子薫)の時に、『文藝』でそれぞれの作品を推した選考委員との対談(李龍徳さんは星野智幸さんと、金子薫さんは保坂和志さんと)まで企画されていて、選考委員のみならず、編集部全体からの期待度が高かったんだな、という印象を受けます。
では、だからこういう系統の作品を書くべし、なんてことではありません。
むしろ、新人賞を獲る為には、過去に誰も書かなかったことを書くしかないので。
ただ、それでも編集部の方や選考委員の方々の、何らかの好みというか、選びたくなる理由のようなものの気配を、探る手掛かりくらいにはなるのかな……と(´;ω;`)
(*ノωノ)★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
……皆さん、いかがだったでしょう?
今回の研究(だたまとめただけじゃないか! と怒られても仕方ないレベルですが……)は、少しでもお役に立てたでしょうか?
年末にかけて、第9回の『tori研』が投稿できれば、と思ってはいるのですが、なにかと手こずっているので、再会は来年になるかもしれません。
また、お目にかかれる日を、楽しみにしてくだされば、これ幸いです。
寒さもこたえるこの季節、どうぞお風邪などひかないように、お過ごしくださいませ!!(‘ω’)
ではでは、またの日を~~(@^^)/~~~
第53回の「青が破れる」(町屋良平著)に関しては、また日を改めて、読書感想及び研究をしてみたいと思います。最新の情報が掲載できなくて、申し訳ありません……:;(∩´﹏`∩);:
※上記記事を書くにあたって、河出書房新社様出版の雑誌『文藝』2012年冬号、2013年冬号、2014年冬号、2015年冬号、の文藝賞における選評、および掲載された受賞作等を参考にさせて頂きました。