こんにちは。第3回目の『tori研』です。

今回は、第119回、第120回 文學界新人賞を研究してみたいと思います!!(*ノωノ)

【第119回】  参考資料(『文學界』2014年12月号 文學界新人賞選評)

受賞作

「トレイス」 (板垣真任)

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「トレイス」 徘徊を続ける祖父を尾行する孫。東北の田舎町で繰り広げられる、認知症の老人がいる家族の物語です。第153回芥川賞を受賞した羽田圭介さんの「スクラップ・アンド・ビルド」もそうですが、老人や何らかの介護が必要な家族を抱えている社会というテーマで書く人が増えてきているようです。

……ということは、このテーマで書く人は結構いる!、ということです。つまりそれは選考委員及び編集者や下読みの方々にとって、「新しくはないネタ=既視感」ということでもあるわけですよね。この題材で執筆されている方は、その中でも「独自性」、「書く必然性」を追求しなければ、厳しい、ということかもしれません( ゚Д゚)

この作品の選評から学べることがあります。

それは、選考委員の角田光代さんの、こんなご意見――

”――ただ私は最後の、理髪店の兄妹のくだりがどうしても気になった。ここだけ、「小説とはこういうものだ」と作者が信じている、「オチ」のようなものになってしまっていて、小説をちいさくしてしまった。” (『文學界』2014年12月号 文學界新人賞選評より)

これはどういうことを言っているかというと、最後の最後で作者は物語を非常にドラマチックで衝撃的な展開(近親相姦)へと導いてしまっていて、それが「よくない」といわれているんです。

なにも近親相姦の描写がいけないとかいうんではなく、「これぞ文學!」「これぞ小説!」みたいなのは、余計だ、と言ってるんです。

コントでいうところの「オチ」みたいなものは、よほどうまく書くならまだしも、素人が思いつき程度に入れ込んでしまうと、どうしてもとってつけたようなものになってしまい、痛い……

エンタメ小説では必要なのかもしれませんが、文學界新人賞のような賞では、むしろ無用の長物。冷めた感想しかもらえません。

もちろん、そういう余計なものを書いてしまっていても、この作品は受賞しています。

ある程度の失敗は許される。それが新人賞というものなのかもしれません。

されど、この最後の「オチ」的な部分を、他の選考委員も評価していないので、こういうのは極力避けるに越したことはないでしょう(*’ω’*)

【第120回】 参考資料(『文學界』2015年6月号 文學界新人賞選評)

受賞作

「サバイブ」 (加藤秀行)

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「ヴェジトピア」 (杉本裕孝)

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 「サバイブ」は、外資系の一流企業に勤めているリッチな友人(男)二人の部屋に、「住込家政夫(男)」的な形で転がり込んで飄々と生きているような若者の話。特異な限られた世界を描いているようで、現代社会でサバイバルして生きている都会の若者たちのリアルな雰囲気をよくつかんでいて、なかなか凄い作品だと思います。

この現代的なリアル感を一番理解したのは、綿矢りささんで、小説の世界を一歩間違えば台無しにするかもしれない「お洒落な言葉選び」を実現していることに好感をもったようです。(人としてお洒落であることが難しいように、小説中にお洒落である言葉を間違えずに配置することも、結構難しいですよね(*_*;))

「人が出来ないことを、さらっとやっている」これが大事なんです。

円城塔さんは、評価として以下のようなことを言っています。

”新人賞に応募されてくるような小説に多くみられる人間関係はほぼ全て脱臼させられ――”

”小説内の出来事と、読んで考えさせられる事柄が全く繋がらない点でも不思議な文章であり、その作用を評価して押した”

(『文學界』2015年6月号 文學界新人賞選評より)

……なんだか、円城さんの小説のように、難しくて分かりにくい見解ですが、私なりにこれを分析しますと、

①ありきたりな人間関係は書いていない

②読者にストーリーを超えた、あるいはストーリーから乖離した「思考」を喚起させている。

小説内を淡々と流れているのは、ほとんどストーリーとも言えないような日常描写なのですが、とってつけたように「物語り」を書かなくても、何らかの「思考」が読者の頭の中で生まれるのなら、それがストーリーに成り得るのかもしれません。

円城さんは、「お洒落で現代的」な文章としてではなく、「不思議な」文章だととられていて、選考委員によっても感じ方はさまざまなんだな、と思いました。

「ヴェジトピア」は、「サバイブ」に比べると、だいぶ物語り性が強い作品です。自分を植物だと思っている女と、植物に愛情を持っている花屋の夫。「人間の受胎」がまるで植物の「受粉」のように読めて面白い作品ですが、非常によく作り込まれています。設定や状況が型に嵌っていなくて独自の世界観を広げているので、「物語り」が生きています。作り込みの甘さに所々指摘があったようですが、松浦理英子さんに強く評価されて受賞されました。

しかし、「これぞ小説、これぞ物語!」という作品は、けっこう危険だと思うんですね。

というのも、作り込んでいく過程でどうしても「型」に嵌っていきそうになりますし、だったら、「型」に嵌らない自由奔放なもの、と思って作り込み過ぎると、今度は人間が描けていない、こんな奇妙な思考や行動をする人間を理解できないしあり得ない、などとリアルさを危ぶまれる結果になって(実際、「ヴェジトピア」にもそういう部分の指摘は数か所ありました(詳しくは『文學界』2015年6月号文學界新人賞選評 をお読みください)、最終的には破綻してしまう……。

理想とするのは「人間の本質を鋭く浮き彫りにする、既視感のない小説」でしょうけども、ストーリーからだけではこれを構築するのは難しいと思います。そこに「独自性のある文体」というものが生まれれば、そして前回の研究で学んだような「小説が勝手に動き出す」ような展開になれば、奇想天外なストーリーはなくても良いと思うんです。

けれど「ヴェジトピア」のように、「型」に嵌らない独特な世界観を有するものなら、やはりそこに物語があっても良い。そういうことなんでしょう。

 

……ふう、やれやれ(*_*;

文学って、ホント難しいですよね~。

実際今年は書くまでいってなくて、研究だけしてますが(間に合うのか! →しらん(-.-))400字詰め原稿用紙百枚くらい書いた気分です(‘ω’)

次回はいよいよ 第121回を研究してみようと思います。「全然役たたん!」とか言わずに、お付き合いもらえれば幸いです。

では、では (-ω-)/~~