第161回芥川賞受賞作品

『むらさきのスカートの女』

今村夏子(著)

(朝日新聞出版)

 

「むらさきのスカートの女」として、近所ではちょっとした有名人である一人の女に興味を抱いた語り手の人物は、彼女と是非とも友だちになりたいと思っていて、しかし中々話しかけられないので、自分の職場にむらさきのスカートの女が就職してきてくれたらいいな、と考えます。そして色々工作しているうちに、ある時ついに、むらさきのスカートの女が、語り手の働く職場(ホテルの清掃)で働き出すことになり……というストーリーです。

いつもむらさきのスカートを穿いているから「むらさきのスカートの女」と呼ばれるようになった女が、他の数多いるその他大勢の世間の女たちから切り離され、彼女に非常に親近感を覚えている人物(語り手)の視点から観察されることで、ある種の特別な人間像として造形が立ち上がっています。

この人間像のリアルな立ち上がり方が、素晴らしいと思いました。

それは、作品に持ち込まれた文体を含める小説の技巧の全てでなされていて、その結果現れてきた人間だからです。一見どこにでもいそうな人間なのに、小説でしか表現できない人間の描かれ方で描かれることによって、特別な存在になる。そのことに、私は胸を熱くしました。

よくよく読んでみると、「むらさきのスカートの女」というのは、別にこれといって特異な性質の女というのではなく、外見、言動、生活環境、その他諸々、比較的良識を備えたごくありふれた一人の孤独な女に過ぎません。

それどころか、語り手は彼女の中に、これまで出会ってきた数々の女たち(少女だったり大人だったり様々)の面影を見つけ、重ねています。

つまり、「むらさきのスカートの女」とは、特別な存在の女でありながら、同時にどこにでもいるごくありふれた普遍的な女でもある人物で、しかも語り手自身との距離感が非常に近い人間でもあるのです。

ある瞬間には、語り手と彼女は、まるで生き別れになった姉妹のように、あるいは一心同体の存在であるかのように、錯覚してしまいます。

彼女たちを繋いでいるものは、一方的な語り手による「観察」であり、そこには家族とも友人とも恋人とも違う愛情があります。

物語の終盤、むらさきのスカートの女は悲劇的な展開へと導かれていきますが、その一部始終も語り手は観察し続けています。

むらさきのスカートの女が、一人の女であり、一人の労働者(生活者)であり、一人の情感を持った人間であるということが、切々と見つめ尽くされ(愛のある視点により)、そして描かれた、そういう小説だったのかな、と思います。