群像 2018年 06 月号 [雑誌]

『生き方の問題』

乗代雄介(著)

(『群像』2018年6月号に掲載)  

                                                                              

                                                                           

『群像』に掲載された、乗代雄介さんの中篇小説です。

2歳年上の従姉に送られた、エピグラフ付きの長い手紙です。恋文と言っても良いでしょう。

かなり長い時間をかけて書かれたものらしく、2018年の7月7日に届くように送られたものです。

この手紙が届く3日後からちょうど一年前、手紙の際出し人である「僕」と、宛先人である従姉の貴子は、9年ぶりの再会をしていて官能的な時間を過ごしたのですが、その記念すべきような日の到来よりも前に、「僕」の気持ちを伝えておく為に、この手紙は書かれているのです。その理由は、やがて手紙の中で明らかになります。

手紙には、お盆の時期に足利の祖父母の家で過ごした幼少期からの、貴子と「僕」の思い出と、そこから繋がるもどかしい恋の話が過去を振り返る「まなざし」の視点で書かれます。

そしてこの「まなざし」は、実におぼつかなく記憶という「認識と情緒」の海を泳ぎ回ります。

手紙を書いている時点の「僕」の時間と、それを貴子に読まれているであろう時点の時間、二人が心を通わせるはじまりである幼い日の記憶の時間、さらに9年ぶりに再会した一年前の時間、手紙を読み終えているはずの貴子の元に「僕」が向かっている時間、過去、現在、未来という時間軸が、手紙という紙面に書かれた言葉の中で同時性を持つ場所のように繋がってくる。あるいは、見つめられる。

手紙は「僕」なる人物の手により書かれるのですから、そこには正しく「神様」のような視点が成立するわけですが、ただしこの「僕」なる人物と等しい「神様」は万能ではなく、どこか頼りない。

そこが、この奇妙で情緒不安定気味な作品の、最大の魅力だろうかと思います。

計算で書かれたというよりも、一字一句が臆病で自意識過剰な書き手の覚束ない手によって書かれた、という感触。

それが、読まれているこの時点においても、今まさにこれは書かれていて、書かれた瞬間と同時性を持って、今まさに読まれているという逆行した感覚へと繋がります。

書き手と、読み手の同時性は、「僕」と貴子という相対を孕みながらも、そこに読者までも引きずり込む。

キェルケゴールの引用であるエピグラフに書かれてあった「同時性」が、実態を持って差し迫ってくるかのような、少し可笑しな感覚へと誘われてしまう、そういう奇妙がそこにあるのです。

しかもこの奇妙は、それほど計算されてなされてはいないかのような危うさがあって、そのことも重大な魅力であろうと感じます。

今まで読んだ乗代さんの作品の中で、最も感銘を受けた一作でした。