『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』 フィッツジェラルド(著)/永山篤一(訳)

(角川文庫)

 

 1860年の夏、ロジャー・バトン夫妻に第一子が生まれた。

赤ん坊に会いに病院へ駆けつけたロジャー・バトンが見たものは、新生児室のベビーベッドに座っている、70歳になろうかという老人だった。

それが彼の息子だと、看護婦は告げる。

ベンジャミン・バトンと名付けられた老人の姿をした子供は、その後、時間を逆行して若返りながら成長していく。

 

ブラッド・ピット主演で映画化された時、かなり話題になっていたので観たのですが、ずいぶん月日がたった今頃になって、原作が気になり、読んでみました。

映画の内容と、だいぶ違っていたので少し驚きましたが、老人として生まれた男が、やがて中年になり、壮年になり、青年になり、少年になり、幼児となり、そして……と、成長の過程を通常とは逆行する形で生きていくという設定は同じです。また、その数奇な人生ゆえに、主人公のベンジャミン・バトンが抱えることになる苦悩や孤独といったものの描き方において、映画は原作に忠実になろうとした形跡が伺えます。

主人公の内面を映像としてだと表現しにくい部分があるのを補うために、映画ではかなり大幅な脚色がなされたようです。

原作と映画が特に大きく違う所として、ベンジャミンが映画だと生まれてすぐに父親に捨てられてしまうのですが、これが原作だとそのまま両親の庇護の元に育ちます。

映画のベンジャミンの方が、より孤独で可哀そうな境遇であるようですが、一方で、彼が人生の節々で感じる孤独や、成長するたびに生まれる周囲との齟齬などは、さほど変わらないように感じました。

つまり、ベンジャミンという男は、両親や周囲からの愛情に飢えて孤独だったのではなく、あくまでも彼の内包した時間の流れ方が通常と違ったために、本来ならば得られるはずだった同時代の人々との、感情や記憶の共有、そこから生まれるはずだった共感、といったものから遠ざかってしまい、そこに孤独が生まれた。その拠り所の無さこそが、不幸だったのではないかと感じました。

普通だと人生を重ねる度に積み重なっていくはずのものが、ベンジャミンの場合はそうはならないのです。

人の一生の不思議や、同時代を生きるということの意味について、深く考えさせられました。

作品の持つ、ユーモラスな感覚にも惹かれました。

なんといっても、生まれて間もなく父親と対面した時、しっかりと言語を喋る(しかも結構な悪態をついていた)老人として新生児室のベビーベッドに座っているベンジャミンの姿(映画ではそんなシーンはありません)は、不条理な感じでかなりシュールだったな、と思います。