星の子

第157回芥川賞候補作品

『星の子』

今村夏子(著)

(朝日新聞出版)

 

 

 小さいころ体が弱かった「わたし」。

ある時、湿疹が治らずに症状が悪化した。専門医にみせ、あらゆる民間療法も試みたが効果はなかった。

案じた父親が会社の同僚(落合さん)に相談したところ、”水が悪い”と言われ、ある「水」を渡される。

『金星のめぐみ』という名前で売られてもいるこの水を使ってみたところ、「わたし」の湿疹はあっけなく治った。

それ以降、両親は、『金星のめぐみ』を扱っている団体に入会し、その教えに傾倒していく。

 

《行間にあるもの》

どう見ても怪しげでしかない新興宗教の団体に、完全に取り込まれてしまっている両親と、その娘であるがゆえに、否応なくその世界に取り込まれようとしている、「わたし」。

親戚は、両親を説得し、なんとか脱退させようとするのですが、二人とも聞く耳を持ちません。

「わたし」には姉がいて、こちらは両親にも団体の考えにも付いていけずに、家を出てしまいます。

「わたし」には二つの世界があり、一つは宗教団体と強く結びついている両親の所属する世界。そしてもう一つは、学校です。

学校には友達がいて、これは普通の世界です。(といっても、なにをもって「普通」というのかは定義も難しいですが、ここでは「両親の所属している宗教団体とは、無縁の世界」、ということにしておきましょう)

けれど、友達は宗教団体の中にもいて、「わたし」は、このどちらの世界にも、ちゃんと「居場所」を持っているのです。

ただし、この二つの世界は、性質上からいえば、対立の構造があり、一方を正しいとすれば、一方は否定されるべき関係であるもののはずです。

その中で、どちらの世界にも所属し続ける「わたし」という存在は、「不思議」を通り越して、「不気味」ですらある気がしました。(この不気味さは、「こちらあみ子」や「あひる」の世界にも通じるものを感じました)

ここで問題になるのが「わたし」の立場(考え方)ですが、作者は巧妙にも、この肝心な主人公の心の有り方を、直接的な言葉では言い表していません。

芥川賞の選評で、小川洋子さんは、『書かないで書く』という言葉で評価されましたが(これは、受賞作『影裏』と合わせて評された言葉です)、正にその通りです。(※注1)

出来事や環境や会話や行動から、あくまでも「想像させる」という手法をとっているのです。

言い換えれば「行間」。そこに、この作品の味わいと豊かな広がりがあると思いました。

 

《子供の視点》

もう一つ、この作品の大きな特徴として、”内側に留まっている”というのがあるかと思います。

いわゆる怪しげな新興宗教に取り込まれた人々の姿を小説で書くパターンとしては、スタンスとして、主人公が仮にその内側にいる存在だったとしても、作者自身はその外側にいて、そこで起こっている理不尽だったり不都合だったりする出来事の全貌を、客観的に捉える、というスタイル。あるいは、複数の視点で描くという方法。

けれども、本作ではどこまでも視点は主人公である子供の視点で描かれ、捉えられるのは出来事の端緒であり、全貌ではありません。

そこに、作品としての限界を指摘することもできるかと(実際に、芥川賞の選評でも、そのような意見もあったかと)思いますが、むしろあえて、視点を内側に留まらせて、端緒だけを客観的に捉える主人公の立場を貫いたことが、この作品の不気味さと、(主人公が)直面している問題の深刻さを、浮き彫りにしているのだと思います。

これは、家族と宗教と、そして虐待の物語であるとも言えると思うのですが、複雑な「愛」の物語でもあるとも言える、と私は読みました。

学校という「普通」の社会に所属した時、そこからみた両親の姿(その言動)は「異様」ですが、その異様さを「わたし」はしっかりと客観的に捉えていて、しかも静かに受け入れています。これは、消極的な「あきらめ」とは、明らかに違って読めました。

機会ならちゃんと与えられているのに、それでも「わたし」は、その「異様」な場所から逃げ出そうとしません。

そして、そこには何があるのか?

……「愛」があると思いました。「愛」と言っても、色々です。

キラキラした太陽のように明るい「愛」もあれば、ゆっくりと人を殺していく、毒のような「愛」も。

これはどんな「愛」なんだろう?

簡単には読み解かせないだけの憎らしさも、この作品にはあります。それが妙な余韻として、ずっと心に引っかかっています。

 

本作は、残念ながら芥川賞の受賞こそ逃しましたが、選評ではかなり推している委員もいたようです。

これからも期待の作家です。

 

(※注1)『文藝春秋』2017年9月号「芥川賞選評」参照。