ららら科學の子 (文春文庫)

第17回三島由紀夫賞受賞作品

『ららら科學の子』

矢作俊彦(著)

(文藝春秋)

 

 

全共闘世代である「」は、学生運動のどさくさで、公安警察への殺人未遂という罪を犯してしまい、指名手配され、1968年、中国へ密入国する。その後、南部の農村へ下放され、百姓として暮らした「彼」は、30年後に再び日本へ戻って来る。

すっかり様変わりした東京に途惑う「彼」は、かつての友人「志垣」を頼って連絡をとる。

ヤクザ業にも近いビジネスの世界で成功した志垣の庇護の元、志垣の手下で自称ヴェトナム系アメリカ人の「(ジェイ)」の世話を受けながら、「彼」の東京での浦島太郎的ホテル暮らしがはじまる。 

題名から勝手に受ける印象で、奇抜なSF小説を想像したのでした。だから、冒頭の一文

こうして彼は、新幹線”こだま”で日本に帰った。(『ららら科學の子』より)

というのを読んだとき、「いったいどんな異次元の世界からの帰還だったのだろう?」と、胸を高鳴らせたのですが、読み進むとそれが1968年(文化大革命が事実上終焉した年)以降、30年間住み続けた中国からだったと分かってきます。

最初の期待はそこで大きく裏切られることになるのですが、けれどもその時点ではすっかりこの風変わりな浦島太郎(もしくはリップ・ヴァン・ウィンクル)のことが、けっこう好きになっていました。

作品の冒頭からラストまで、「彼」としか呼ばれない主人公の男は、もう齢50にもなる立派な「おっさん」なのに、どこか少年のような純粋さがあり、それゆえに常に何かに脆く傷つけられていて、とても危うい印象です。そして、この「おっさん少年」的浦島太郎は、けっこうハードボイルドで、妙に”カッコイイ”のです。

その「彼」が捉える30年ぶりの「東京」という世界の描写は、これまで一度も読んだことのない、けれど物凄く詳細までリアルで立体的な「東京」です。

”立体的な”と言いましたが、それは空間だけの立体感ではなく、30年分の時間軸や、記憶の底に蓋をしたまま放置させ続けている30年分の感傷的な気分(家族、主に妹への想い)と共に構築された、立体感です。

そこには、30年前の記憶と完全に隔絶された現在もあれば、あやふやな記憶と地続きになって、そこから発展し成長してきた(もしくは古び滅びてきた)現在もあります。

それは、「彼」が知っている古い漫画や映画が空想で描いた未来的な世界と、どこか似ていて、けれど完全に同じではなく、”少しずつ違う”奇妙な世界です。(「彼」はそれを、(漫画や映画より)”少しずつ面白くない”と傑に話しますが)

 

物語りは「彼」が日本を離れる、1968年のころ、全共闘の時代の東京の様子や、文化大革命以降の中国の歴史的な背景等が詳細に語られますが、それでいて、政治的な思想や理念のようなものに、主人公はほとんど無関心であるようです。

日本、中国、そのどちらの国に対しても「愛国心」のようなものはなく、政治的な思想もない「彼」は、自分が30年間で失った時間や、(日本に暮らせば)当然享受できた利益に対しても、喪失感を感じていません。

むしろ「彼」は、日本を離れるより前、そもそもの初手から持ち合わせていなかった「アイデンティティ」の不在にこそ、ずっと捕らわれていたのではないでしょうか。

自分の人生が空虚であることを、日本にいようと外国に暮らそうと見いだせなかったこと自体を、嘆いているようです。

その内実は、空虚さを当たり前のように抱え込んで生きる現代日本の若者と、さして変わらないのではないでしょうか。そして、その悲哀は、手塚治虫の描くロボット少年(科学の子)の悲哀と、どこかで繋がっているのです。

 

物語りの冒頭で期待したSF小説ではなかったですが、”俺たちはみんな科学の子だった”という終盤での一文を読んだとき、「ああ、ずっとこういう小説が読みたかったんだ」と、強くそう思いました。

もし、「お勧めの本を10冊教えて」と言われたら、今なら迷わずにこの本を、その中の一冊に入れます。