青が破れる

「青が破れる」

  町屋良平著

(第53回文藝賞受賞作)

 

「あいつ、ながくないらしいんよ」

ボクサー志望の秋吉(おれ)は、ハルオ(友達)の彼女(とう子)の見舞いに行った帰り、ハルオからそう告げられる。

ハルオは恋人の病名も知らず、一人では見舞いにも行けない、不器用な男。

そんなハルオに頼まれて、秋吉は一人でとう子の見舞いにいくことになる。

ある時、秋吉はハルオから、とう子が危篤らしいと、告げられる。

ハルオは秋吉にとう子の見舞いに行ってくれと頼む一方、自分では直接会おうとしない

危篤のことも、間接的に知ったようだ。

その上、死んでしまうかもしれないとう子の元へ、駆けつけようとする気配すらない。また今度一緒に見舞いにいこう、と言うだけだった。

 平易な文体ですが、登場人物の詳しい背景描写や説明が少ない割に、どうも簡単には理解できないような複雑な人間関係があって、それを突飛な言動や展開で示されてくるので、正直首を傾げたくなる場面も幾つかありました。

例えば、二度目に秋吉が一人でとう子を見舞った際、突然彼女のベットに招かれて、その隣に身を横たえる、だとかいうシーン。どうやら親友に違いない友達の彼女との関係性で言えば、これほど成立しえないシーンもないかと思うのですが、こういうことが自然に(?)展開の中に組み込まれている小説であるということです。

とう子と秋吉の関係性も奇妙ですが、それ以上に、ハルオととう子の関係は、奇妙というより不自然な気さえしました。

特に、とう子が危篤だというのに会いに行こうとしないハルオの態度は、そこにのっぴきならないとう子への感情があるのだとしても、やや小説的デフォルメがきつ過ぎるのではないかな……と感じてしまいました。

主要な登場人物5人中、3人までも死んでしまうというのも、安易と言えば安易ではないかな、とも……。

けれど、物語が秋吉という、どうにもくすぶった感のある男の一人称で、一貫して描かれているのは、とてもいいと思いました。

妙な言動を偶に繰り返す登場人物たちですが、それぞれにどこか憎めない可愛らしさがあります。それが小説の世界を面白くして、微妙に危ういところを、成立させてしまっているとも思いました。

秋吉には恋人がいて、相手の女性(夏澄)には夫と息子がいます。秋吉は夏澄が好きであるのに、彼女はそうではないと感じながら、ずるずるとその関係を続けています。

夏澄との関係ばかりでなく、秋吉は、どこか人生にも行き詰っていて、ボクシングを続けながらも、本当にボクサーになりたいのかどうかさえ、よくわかっていないのです。

ここのところの秋吉のモヤモヤ感と、自意識の過剰さが混在しているようなのが、ちょっと面白いと思って読みました。

 

選評では、斎藤美奈子さんだけが、

異端の気分を思いっきり味わった選考会でした。(『文藝』2016年冬号 文藝賞選評より)

として、どうにもこの作品を呑み込めなかった心情を語っています。

それ以外の藤沢周さん、保坂和志さん、町田康さんは、評価していて、特に町田康さんは、上記同の誌面にて、作者と対談までしていますので、強く推されたんだと思います。

以下は、町田康さんの選評の言葉です。

「青が破れる」は、そこで使われている言葉に実体や実感がこもっており、文章に信頼がおけた。また、上滑っているような表現もところどころに見られるがよく読むと、それも十分に意識され、計算されたものであることがわかる。(上記同より)

さらに町田康さんは、物語の終盤で、減量をする梅生(ジム仲間)が食べて吐く行為に及ぶとき、「神様……」というセリフが出るのですが、その前後の文章を高く評価しています。

以下も、同氏の選評の言葉を引用させてもらいます。

結末の近く、神の名が呼ばれるところ前後の独白は、もはやすべての人が心に抱えている、意味も訳もわからない、なんと呼んだらよいかわからない感情に迫っていて素晴らしかった。(上記同より)

このくだりは、この小説最大の読みどころだと思います。

秋吉の一人称で貫いた視点が、ここだけ梅生か秋吉なのか判然としなくなるところがあって、町田康さんとの対談の場で、作者自身はこう言っています。

――個人では持ちきれないなにかを書いたつもりです。ここだけは、たとえ小説のなかで浮いてしまっても、説明せずにしっかり書こうと思いました。(『文藝』2016年冬号 受賞記念対談より)

 

原稿用紙112枚の作品で、かなり短い方だと思うのですが、うっかり読み流していた登場人物の何気ないセリフや言動の一つ一つが、よく注意すると、ずいぶん考えられて書かれていたりするので、もう一度後から辿りなおしたりして、すると思いがけずに思いがけない発見があったりして、それなりに時間をかけて読みました。

それでも腑に落ちない気持ちもどこかにはありますが、それはこの作品で人があまりにも簡単に死んでしまいすぎたかのように読んでしまったことへの、整理の付かない感情なのかもしれません。