新潮 2011年 11月号 [雑誌]

「楽器」

滝口悠生著

(第43回新潮新人賞受賞作)

(『新潮』2011年11月号掲載)

彼ら(とその知人たち)は毎年、五月の上旬にその街(秋津)を訪れた。

かつて、西武線の窓から不思議な池(水際にはアロエに似た植物が生い茂り、巨大な魚の死体が横たわっていて、その傍らに金色の猿がいる)をマリーが見て、その池を探索するためにマリーが私を誘ったのが、はじめだった。

翌年、塔子(マリーの高校の後輩)が加わり、以降、その年々で各自の知り合いなども誘い合わせたりして、メンバーは毎年増えたり減ったりした。

そして今年、谷島(私の職場の同僚。今年三度目の参加)と、きよ子(初参加)と、塔子、4人で秋津を訪れたのだったマリーは音信不通になって不参加)

そもそも、彼らの目的は、マリーの見た池を探すことだったはずだが、池は見つからず、何年経っても土地勘が得られない街の「迷い歩き」がいつしか楽しみ(目的)になっていた。

探索で、毎年新しく奇妙な人や生き物や建造物に遭遇した。そして毎回、前の年に見た奇妙な人や生き物や建造物を探すけれど、決してもう一度その人や生き物や建造物には行き会わない。

それを探しながら歩くのである。するとさんざん街をさ迷った挙句、思いもしなかったような場所に行き着く。

そんな「迷い歩き」の末、4人が辿り着くのは、奇妙な美しさを放つ庭だった。

去年(2016年)、「死んでいない者」第154回芥川賞を受賞した滝口悠生さんの、デビュー作です。

「人称」を何度も意識的に変換させてしまうという方法をとっていて、一人称で書かれていると思って読んでいると、急に三人称の流れになり、「私」という本来主体的な人物でさえも、三人称の文体の中では一登場人物(彼らの中の一人)に取り込まれる(というか、取り込まれてしまうのか、俄然主体性を持ち続けているのか、小説の中の遠近感が正確にどういうことになっているのか、きちんと掌握できないのですが……)。

しかも、時系列も行ったり来たりして、そのうちに今がどこで誰が主体なのかが、注意していないとよく分からなくなる。

ストーリーを単純に追うことを、この作品はまるで良しとしていないかのようです。

実際、ストーリーそのものよりも、「迷い歩き」という行為自体の中に見え隠れする記憶と発見の奇妙な交錯とか、音に関する感覚――音と、音を発しているものと、音を感受する者との関係性とか、音と風景との切り離せない繋がりとかいうものに、興味の主体があるようです。

言わんとしていることは、なんとなく分かるようで分かり辛く、なにか掴めそうで掴めない気がしました。

この人称や視点の混乱した文体が、心地よいという意見もあるようです。

まるで、文字化されただまし絵の上を歩かされているような感覚がして、妙に人を落ち着かなくさせる作品だと思いました。

こんな文体で、こんな内容の小説を書こうとデビュー作の時点から考えて、それを形に出来る才能があるんだと、正直読みながら何度も何度も驚きました。