指の骨

「指の骨」

高橋弘希(著)

(第46回新潮新人賞受賞作)

(新潮社)

南方の密林の奥地のタコ壺(戦場に掘った一人用の壕)の中で「私」は、左の肩口に受けた傷の痛みに耐えながら、近くで聞こえる榴弾の音に、自らの死を考えていた。

辺りが鎮まり、そっと顔を出すと、銃声が轟く。

撃たれたのは自分ではなくて、部隊を指揮していた田辺分隊長だった。その分隊長を撃った若い白人兵を、「私」は銃殺する。

そして再び穴の中に戻った「私」は、穴の底で手榴弾を抱きかかえながら眠りに落ちる。

翌朝、友軍の中隊に発見された「私」は、数日後には野戦病院にいた。

本作は、第152回芥川賞候補作にも選ばれています。(この回で受賞したのは小野正嗣さんの「九年前の祈り」でした)

戦争を知らない若い世代が書いた「戦争小説」としては、実際に戦争を体験した世代の戦争文学である大岡昇平などの作品と並べても遜色ないほどの完成度の高さと圧倒的な文章力で、新潮新人賞の選考では、選考委員全員の絶賛を受けての受賞でした。

本人インタビューでも述べられていますが、既存の戦争小説で多く書かれている戦闘の場面はそれほど描かれておらず、独自の想像で創り出した野戦病院でのシーンが主に描かれています。

そこで親しくなり行動を共にする絵描き志望の清水や、元教員だった眞田や軍医との交流の他、野戦病院で死んでいった名もなき兵士たちの行動とその死にざまを淡々と描きつつも、そこに注がれている視線には、人間的な温もりや優しさが感じられます。

死んだ兵士たちの骸(むくろ)は、現地の土にそのまま埋められてしまいますが、ただ指だけはその前に切断し、火葬して骨だけを保存します。(生き残った誰かが、それを故郷の家族に届けるのでしょう)

「私」は、眞田の指の骨を、彼の認識票と一緒にアルマイトの弁当箱に入れて背嚢にしまっています。

自分がどこかで野たれ死んでも、アルマイトなら土に還ることがことがないから、いつか誰かが彼の家族の元に届けてくれることを想って……。

 

主人公の「私」は、戦争の最前線から負傷により離脱して、一時野戦病院で療養の時を過ごしますが、その傷が治ったと思った途端に、野戦病院を追われ、他の衰弱兵たちと共に、迫りくる敵軍の軍靴を背にして行軍します。

食料が尽きると隊列を離脱する(死んでしまう)者が現れ、やがて医薬品が尽きた所で、軍医も自殺します。

ここからラストにかけてのくだりが、素晴らしい。

敵軍から逃げまわるうちに、いつしか飢餓との戦いに陥って、死んだ兵士の指の肉を食べようとする仲間の行動など、資料を読んだ上で想像で書いたのだとしても、凄いと思いました。

また、こんなくだり――

敵であるはずの米軍機も、頭上を素通りするだけで、我々は誰と戦うでもなく、一人、また一人と倒れ、朽ちていく。これは戦争なのだ、呟きながら歩いた。これも戦争なのだ。(「指の骨」より)

からは、戦争というものが持つ普遍的な「虚しさ」が含まれているようで、胸を突かれました。

また、主人公は手榴弾も失くして自決することも出来なくて、舌を噛み千切ろうとするもままならず、あかんべーの状態を曝すことになるのですが、そこでこんな一文――

一皮剥けば人喰いで、一皮剥けば人殺し、そして私を剥いた最後の姿がそれであった。(「指の骨」より)

極限の状態で剥きだしになる人間の本質を皮肉りながらも、どこかでそこにも優しい眼差しがあるようで、それがこの作者の人柄である気がしました。

芥川賞は逃しましたが、それでもこの作品が持つ力は強く、もっと評価され注目される日が来るのではないか、とそう思います。