カブールの園

「カブールの園」(文藝春秋)

 宮内悠介著

(第156回芥川賞候補作)

 

サンフランシスコ在住の主人公の「わたし」(レイ)は、子供のころ虐められたの体験がトラウマになり、大人になった現在も苦しんでいて、クリニックに通い、最新のVRを使った治療を受けている。

大学時代の友人と立ち上げた1T会社で働く「わたし」は、絵本作家志望(ベジタリアン)の白人ジョンと暮らしている。母親との関係は良好ではなく、出口のない依存関係が続いている。

そんな「わたし」は、ある日突然、社長である友人から長期休暇を命じられ、一人旅に出る(友人の社長は、ヨセミテ(カリフォルニア州中部にある、世界遺産登録されている国立公園)にでも行って、休養するようにという意図から)。

友人からのサプライズ・プレゼントという形ではじまった旅だったが、それは日系三世としての「わたし」のルーツを見つめ直す旅になった。

旅の途中で「わたし」は、マンザナー強制収容所にも立ち寄る。そこは、第二次世界大戦中、多くの日系アメリカジンが収容された場所である。 

作品の舞台はアメリカで、その世界に身を置いたマイノリティの物語だと言えるのでしょう。

アメリカという国は、「合衆国」というくらいですから、たくさんの民族の、つまりたくさんのマイノリティの集合体であり、それらが共存する世界なのだから、厳密にいうと結果マイノリティなど存在しないのではないか、という勝手な思い込みが、その国を知らない一日本人の私にはありました。

どちらかというと、良好な関係を保つ同盟国アメリカは、親日のイメージも強く、また民族性や宗教の違いに、最も寛容(もしくは無関心)な国なのだという認識でした。

けれど、この作品を読むと、かつて大戦を戦った「敵国」の血を引き継ぐ者としての日系人の、この国における宿命的な立場や精神的な喪失感が伝わってきて、同じ日本人の血を持ちながら、その実際の感覚を知らないということ自体に気付かされます。そしてそのことに、一抹の不安に似た感情を持ったのでした。

 

題名にもなっている「カブールの園」というのは、主人公の恋人が考えた造語です。主人公(わたし)が受けている最新のVR治療のことを指して言っているのです。

カブールというのは、アフガニスタンの首都ですが、主人公の「わたし」が子供時代に”仔豚ちゃん(ピギー)と呼ばれていたことと結びつけているのです。(イスラム教徒は豚肉を不浄として食しません)

なお、「マンザナー」はスペイン語で「リンゴ園」を意味していて、語感的にどこか繋がっている印象も受けます。

また、作中で大事なキーワードの一つとして、「伝承のない文芸」という言葉が出てきます。これは、収容所で発行されていた同人誌である「南加文芸」という文芸雑誌の一冊の中の見出しです。

アメリカという大陸の中で、もはやこの先消えていくだけの運命を想いながら書かれた日系人による日本語の文章であり、文学なのです。

作中では、その言語を使用するにおける「寂しさ」や、桎梏について書かれた(雑誌内の)文章も出てきて、主人公の個人的な孤独感が、そのまま英語圏におけるマイノリティな母国語の文学の問題とも重なってきます。

 

文章そのものは非常にそつなく軽い印象で、”外国語を翻訳した日本語の文章”という印象を受けました。しかし、その下に眠っている問題の層の厚みは深く、また深刻なものを感じました。

ただ、残念に思ったのは、作品がスマートで洗練されている分、主人公の「わたし」を含む登場人物たちが、やや記号的な存在として配置されすぎていて、生きた人間臭が弱い気がしました。そこのところで感情移入していくことが難しかったというのが、正直な感想です。

けれど、現在のアメリカ社会に身を置く日系人たちの問題を描いた秀逸な作品であることは確かで、読むべき一作だとも思いました。