新潮 2006年 11月号 [雑誌]

「ポータブル・パレード」

吉田直美(著)

(第38回新潮新人賞受賞作)

(『新潮』2006年11月号掲載)

主人公の蔓巻いづみは、『アル・パチーノ』という、『ドン・キホーテ』もどきのディスカウントショップで店長として働いている。

実家で、母と祖母と三人で暮らしているが、その日母は友達と旅行に出かけた。いづみの姉の雪子が、金の無心に現れそうなので、それから逃れるためだと思われた。

雪子は、大学在学中に妊娠し、未婚の母になることを決めて、その後双子を産む。双子の父親ではない男(小林春男)と結婚して実家から出て暮らしているが、生活は苦しいようだ。

というのも、春男はちょっと変わっていて「去勢した猫に愛を教える伝道師」などと名乗っていて、猫を預かる仕事をしているが、収入は乏しかったのだ。

そんな春男が、いづみの家にやってきて、彼女に金の援助を申し出る。

仕方なくいづみが5万円を渡すと、春男はあっさりそれを受け取り、その後で、いづみを誘ってきた。いづみは何故かそれを受け入れ、二人は不倫の関係に……。

選評で、どの選考委員も、この作品を積極的に推しておらず、それなのに受賞させてしまうというのは、何となく狡いなぁ、という印象を持ってしまいました。

だって、作品が世に出て散々酷評されようと、これを選んだ選考委員の誰も責任を負わない。みな、何となく受賞には反対しないけどね、この作品のこんな所やあんな所は駄目ですよ、的な言葉を尤もらしく差し込んでいて、後でどうにでも言い逃れできるようにそんなコメントを残しているとしか思えないんですよね。

もちろん、選考では編集部全体の意向とか、方針とか、私たち一般人には分からない大人の事情もあるのでしょうし、なんとも言えないんではありますが……。

だた、選考委員の小川洋子さんが、

この作品は、もっと凄味のある狂気を描けたはずだった。(『新潮』2006年11月号 選評より)

と述べられていたように、人物像やその背景等に関してもっと突き詰めていれば、実に魅力的な作品にもなれていたと思うし、そういう意味で、とても残念であります。

主人公のいづみが、義兄にあたる春男と男女の仲になる展開が薄すぎて、まずあり得ないし(義兄との不倫があり得ないのではなくて、展開が薄すぎてあり得ない)、あり得ないことをあり得ないこととしてちゃんと小説が受け止め切れていない。

元々、自尊心の高かったはずの姉の雪子が、シングルマザーになることを決意する背景もほどんど描かれず(相当な決意ではないでしょうか)、それなのに貧困生活に疲れたと、双子とのわずかなやり取りの後、簡単に呟いてしまう。これでは、雪子がいったいどういう女なのかが、ちぐはぐ過ぎてよく分かりません。

春男が「去勢した猫に愛を教える伝道師」という特殊な使命感のようなものを宿すようになる過程や、そもそも「去勢した猫に愛を教える伝道師」とはなんなのか、いやそれ以前に、春男がどういう人物なのか、まったく伝わってこない。

これら全てのことを一言でまとめると、人間が描けていない。と、なるのでしょうか。

もっと別の言い方をすると、この小説に出てくる人物たちは、特殊な二次元化加工でもされてしまっているみたいに、表面的でツルンとしていて、”その人の根っこ”みたいなものが見えてこない。

それならばそれでもいいのですが、だったら、「意地でもその根っこなるものは見せてやるまい」とするくらいの作者の姿勢というか意気込みが、今度はむしろ必要になってくるのではないでしょうか(こっちの方が、たぶん技術・根気ともに相当難しいはず)。そのようなものも、どこにもない。

冒頭と終わりの夢のシーン(浅田彰さんは、この夢の配置は安易だと切り捨ててますが)、祖母が折る千羽鶴や、「タイガー・バター」の一件など、細かい所では面白い描写や展開があって、複数の人物の行動や視点を並行して進めながら物語を一日の出来事として上手くまとめていることなど、中々難しい点を乗り越えているだけに、人間がきちんと描けていないというのは、本当に残念な気がしてなりません。