死にたくなったら電話して

「死にたくなったら電話して」

 李龍徳(著)

第51回文藝賞受賞作)

(河出書房新社)

大阪は十三。

居酒屋でバイトをする三浪生の徳山は、バイト仲間に連れられて早朝5時から営業しているというキャバクラ(朝キャバ)を訪れる。

そこで出会ったキャバ嬢に、初対面から目が合った瞬間に笑いだされ、しかも女はすぐに笑い止まらずに、ついに爆笑するにまでなり、徳山は困惑してしまう。

女は、ミミという名で働いていて、本名は初美。徳山を店に連れて来たバイト先の先輩である日浦が入れ込んでいる女で、「淀川区でいちばんの美人」と公言するほど日浦は初美にぞっこんである模様。

その初美が徳山の顔を見るなり大爆笑したことで、店の中は変な空気になり、しかも初美は贔屓客である日浦のことなどそっちのけで、徳山にばかリ興味を示し、好意のある態度をを隠そうとしない。

日浦や他のバイト仲間の手前、終始居心地の悪さを覚えると共に、女の風変わりな態度に引き気味な感情を持つ。その一方では、初美の見た目の美しさも観察している。

店を出るとき、さりげなく初美は徳山の手に触れてきて、それを握らせる。バイト仲間と別れても、なかなか手の中のものを確認することが出来ず、自宅のアパートに帰ってからようやく左手を開くと、初美の名刺だった。

名刺の裏に、「しんどくなったり死にたくなったら電話してください。いつでも。」というメッセージが書かれていた。

大阪に詳しくないので、十三という地名を(恥ずかしながら)知らなかったのですが、淀川区にある歓楽街のようです。ウルフルズがインディーズ時代に活動していたライブハウスもあるそうで、作品を読むと何となくその街の雰囲気も伝わってきます。

選考委員の山田詠美さんは、本作を”十三版「失楽園」とでも言いたくなるような”と選評に書かれてましたが、確かに「心中もの」と思わせる内容になっています。

物語りは、最初は初美に懐疑的だった徳山が、次第に心を許すようになり、そのうちどんどん惹かれてゆくようになり、初美に溺れれば溺れるほど、「死」の方へ引き寄せられていって、破滅が顔を覗かせてくるというもの。その過程の中で、何度か「心中」という言葉も出てきます。

では、それほどに強い男女の情愛が描かれているかと言えば、少し様相が違うようです。情愛というより、もっと深く描かれているのは”残酷なものに惹かれていく人間の心の脆さ、儚さ、奇怪さ、哀しさ”といったものです。そこに、倒錯した性愛が混ざってくる感じでしょうか。

それなりに顔立ちや見栄えも良い若者でありながら、不器用なところもあり、職場や家族関係や何やかやで「生き難さ」や「鬱屈感」を抱え込んでいた徳山の前に、突如現れた不可思議な女、初美

初美は、キャバ嬢でありながら大変な読書家で、しかもかなり偏った指向の読書家です。殺戮やレイプ、魔女狩り、拷問、ありとあらゆる世界の歴史上で実際に行われてきた人間の悪徳の数々を記した書物ばかり本棚に並べ、

”「そこに人間の悪意をすべて陳列したいんです」”

などと、徳山に言ってのける。

人間が人間をどのように残酷に扱って殺したかという話を、嬉々とした顔でしてくる初美に、本来グロイことがそんなに好きでもなかったはずの徳山は欲情していく。そして初美に溺れていく……。

人間の本質って何なのか、ということを問いかけてくる作品であると思いました。

この作品の素晴らしい所は、徳山の中に、人間の暗く残酷で「邪悪」な面と、それを本能的に嫌って遠ざけようとする「善良」な面と、両方が同時に矛盾なく存在していることを捉えているところです。

本来、どちらでもないというのが、ごくごく普通なのではないかな、と思うのです。

つまり、人間はいつでも「悪」と「善」と、またそれ以外の色々な感情を同時に無数に有していて、常にニュートラルな場所から、これら複数の入り乱れた感情群を見下ろしていて、その無数の選択肢の中からその都度、何かを選択し、選択したものが結果となってその人間の善悪や個性や生き方全体をも決定づけていっている。そういうものなのではないか。

選んだことの結果から、後付的に感情が芽生えてくるという場面を、作者は逃さず描いています。

ある場面では、徳山はそれまで思ってもなかったことなのに、つい口にしてしまったセリフから、それが本来の自分の感情やスタンスだったと思いはじめたり、口にしている言葉が、自分の本当の感情とはズレていることをはっきりと意識しながらも、その言葉を止められず、どんどん本来の感情ではない方向へと内面の方が崩されていって、変貌を遂げていく。これが、破滅に導かれる道筋になっているわけです。

その過程は自発的のようでもあり、初美のマインドコントロールがなせる技のようでもあり、この辺の描き方が秀逸すぎるほど秀逸です。

素晴らしい一文があります。

こういうとき、内心との葛藤が際立つせいか、時がスローモーションで流れているように徳山は感じる。かといって、ゆっくりとした時間のなかで落ち着いて自分を修正できるのでもなく、ただゆっくりと間違える。ゆっくりとした時間のなかで明らかに間違えている自分を冷静に見るしかない。(「死にたくなったら電話して」より)

これを読んだとき、初美の話すどんな残酷物語よりも背筋が寒くなりました。こういうことが自分にも確かにある、と思えたからです。

選考委員の保坂和志さんは、この作品の特徴として、”会話文にも地の文にも共通した長さ”があるとして、こんなことを書いています。

できれば三分の二、せめて五分の四くらいにしておいてほしかったという気持ちは最後まで変わらなかったが、長いから読むのが嫌になったわけでなく、どの場面も若干の辛抱は必要だが読み終わった場面に対して「せめて五分の四にしてほしかった」と思っているということはこの「長い」と感じているところもまたこの小説のキズではなく特徴なんじゃないか。ー(中略)-全体を貫くこの「長い」という感じが深みにはまってゆくことの説得力になっているように感じる。(『文藝』2014年冬号 文藝賞選評より)

私自身の感想としては、「長い」というより「もどかしい」という感情だったのですが、それはこの作品がどうしてもその時点で考えられ得る最悪のシナリをなぞりながらゆっくりと(期待通りに)進行していくからでしょう。

”こんな残酷な話、ちゃっちゃと読み飛ばしてもうこんな暗い事考えたくない”、という気持ちと、”でも人の不幸って面白い、どうしよう、どうしようもなく面白い!”、と感じている二つの気持ちがない交ぜになってきて、混乱し続けるからではないかと推測します。

基本的に地の文は共通語で書かれていますが(徳山の感情の描写では関西弁が混ざることもあり、これは書き手と徳山との距離感の近さとの関係でしょう)、テンポ自体は関西弁なのだと思います。

だから、話し言葉的に長くなるセンテンスがあったり、ポンポンと短く小気味良いところもあったりしていて、全文関西弁で書き替えてみると、まったく別の味わいが楽しめるのではないかな、とも思ったりしました。

藤沢周さんは、”なんという毒か”という言葉で評していて、

世界を拷問にかけるようなこの虚無と呪詛は、やはり徹底して安易なる「奇」を回避したからこそ立ち上がってくる真の「奇」といえる。(同上より)

と賛辞を惜しみません。

星野智幸さんは、

この小説の中で繁茂する悪意の言説にシンクロするのは避けがたかった。(同上より)

とし、さらに、

自分の中に存在を意識しつつも、コントロール下に置いてあるはずのそのような「カウンター悪意」が、この小説の言葉によって封印を解かれ、活性化していくのを感じる過程は、恐怖であり愉悦である。(同上より)

と、本作にのめり込んで読まれた感じを明かしています。

確かに暗い作品ですが、読みだすと逃れ難い興奮をもたらす暗さであって、それが妙に心を癒してくれるという不思議な魔力を秘めてもいます。

”「死にたくなったら」またページを開いてみてください”

これは、作者の李龍徳さんの「受賞の言葉」の中の一言です。李龍徳さんも、そういう気持ちになったことがあるそうです。追い詰められた人ほど、本作は心に響くのではないでしょうか。