世紀の発見 (河出文庫)

「世紀の発見」

  磯﨑憲一郎(著)

(河出書房新社)

 

2007年に、「肝心の子供」第44回文藝賞を受賞した磯﨑憲一郎氏が、2008年『文藝』冬号に発表した作品です。

主人公の「彼」は、子供時代、いくつかの不思議な体験をする。

夏の夕方、運転手も乗客も乗り合わせない奇妙な巨大機関車を目撃したり、剣道教室の稽古をサボって公民館のロビーで暇をつぶしていると、窓ガラス越しに見えた中庭の池に信じられない大きさのコイを見つけたり、保健所に連れて行かれていた飼い犬が戻ってきたり、森で友人のAと遊んでいたらはぐれてしまい、それきりAを見つけられずにいたのだが、その時から大人になった現在まで、Aとは二度と会っていなかったり……。

Aは森の中で事故にあったわけでも神隠しにあったわけでもないのに、はぐれてから一度も会わなかったということは、おかしな話だった。

機関車のときもコイのときも、誰かに話そうとすると、どこからか声が聞こえてきて、声は「彼」が見た驚くべき光景を誰にも話すなと言う。それは、有無を言わせずに「彼」を従わせる不可思議な力だった。

飼い犬が家に戻って来たとき(それは母の犬だったが)、「彼」は起こった全ての奇跡は、母が仕組んだことだと思うようになる。

作品の隅々に家族への愛情が感じられるのは、自伝的な要素もあるのでしょうか。

子供時代に経験する不思議な出来事と、それを目撃したときの少年らしい感覚が自然で、時代設定が少し古い印象なのに、自分にも過去そんなことがあったかもしれない、とふと思ってしまいます。

両親――特に母親の描写が素晴らしく、子供である「彼」の世界をすっぽりと覆ってしまうような大きな存在としての「母」が、これもまたとても自然に存在していて、代々「ポニー」と名付けられる犬の挿話も非常に和やかで、明るさとある種の健全さを湛えています。

成長した「彼」は、石油掘削設備の技術者としてナイジェリアに派遣される。

現地の政治的情勢などもあり、石油掘削の作業がはじめられないまま月日は瞬く間に過ぎて、気が付くと11年過ごしていた。

このナイジェリア時代にも、「彼」は奇妙な体験をした。

ある地主の屋敷に立ち寄ったとき、その庭の景色が子供のころの記憶を引き寄せて、遠い昔、森ではぐれたAのことを思い出させていた。ナイジェリアの大統領(ババンギダ)の写真が、Aと同じ眼差しをしていることもあった。

その後結婚し、娘を持つ身になると、娘と買い物に出る時間を大事にするようになる。あるとき「彼」は、子供だけが人生の時間を繋ぎとめておく担保になっていたと気づき、それは両親も同じだと思う。

母が旅先で心臓の発作を起こし、現地(アメリカ)で手術して戻って来ると、心配して見舞いに行く。病院で、母を抱きあげようとするのにびくともせず、そのときの両親とのやり取りを受けて、彼は再び悟りにいたる。

人生のあらゆる経験は、母に報告することを前提として起こっていた。さらに、自分が母に報告しようと思っていたことは、じつは母が報告済みの一部だったと……。

三井物産の広報部長だったそうで、ナイジェリアの話も実体験に基づいているのかもしれません。

ナイジェリアの自然や現地の風土など、描写が鮮明で微に入っていて、ブッダ親子を描いた「肝心の子供」での自然描写を思い起こさせます。

物語りは、一人の男の幼少時代からの体験を通して、非常に哲学的な思想感に到達するまでの軌跡を描いたもので、ともすると難解で衒学的に陥りそうな内容ですが、どこを読んでもそのような箇所は見当たらず、肉のある作品だと思いました。

また、あらすじをその通りに書こうとすると、どうしてもそこにある本質的な部分を見失いそうになり、単純に編まれているように見える構造が、実際にはものすごく複雑に絡んでいるのだと分かりました。

 

「肝心の息子」では「父と息子」という父系からなる家族像で、「愛情」というよりも「血」の関係であった気がします。どこか、一方的に放出されて解き放たれるだけの印象でしたが、ここでは「母」から「彼」、「彼」から「娘」。そしてまた「娘」から「彼」へと循環する愛の形が鮮明で、さらに全てを覆う「母の愛」というとても大きな世界が照り輝いています。

そういう意味で、この作品は「家族の物語」もしくはもっと単純に「愛の物語」なんだと思います。