カメレオン狂のための戦争学習帳

「カメレオン狂のための戦争学習帳」

 丸岡大介著

(第52回群像新人文学賞受賞作)

(講談社)

 

 

未成年者に対するわいせつ行為など、近年、教員による不祥事が目立つようになった。

教育を現場から改善するべくして、市内にある全ての小中学校、高校(市立公立を問わず)に勤務する若い独身教員のための寮が設立された。

表向きには入寮は希望制だが、独身者で下手に入寮しないでいると、職場での待遇その他に関わってくる恐れがあり、実質的には半強制的な制度となっている。

「田中」は、恋人に勧められて、入寮を申し込み、すぐに受理された。

寮の規律は厳しく、平日は全員参加の朝礼からはじまり、寮長の訓話を聞くなどした後、解散して朝食をとると、それぞれ勤務地である学校に出かけて行く。

寮内の一切の雑事も療員が当番制で行うため、入寮した教職員のプライベートな時間はあまりない。禁欲的なまでの生活が「田中」を取り巻いていく。

寮生活が始まってから間もなく、教育委員会に呼び出された「田中」は、極秘の調査員として、寮内で気付いたことなどを定期的にレポートにして提出する、という特別任務を与えられる。

「田中」のような調査員は複数いるようで、お互いがお互いの情報を教えられることはなく、誰が自分以外に調査員なのかは謎である。

また、何のためのレポート提出なのかも、その真意は謎で、「田中」には、分からないことだらけである。

この分からないだらけの状況下で、常に周囲の人間に訝しみの眼差しを向け、不穏な者同士の見えない戦いの気配を感じながら、「田中」は武器としてのペンを持ち、ひたすら秘密裏にレポートを書き続ける。

まるで、軍隊か自衛隊組織のような寮内での生活風景や遣り取り。ここにもう既に、「戦争」を匂わせる舞台設定が仕込まれています。

さて、カメレオンというのは、変幻自在に体色を変え、周囲に存在を溶け込ませて敵の目を欺く生き物ですが、まさに、そのような手段(もしくは構えで)戦え、と最期に作者は鼓舞しています。この小説自体が、「田中」の書いたレポートである、という読み方も十分出来るので、そうすると、これは「田中」の心の声がそう言っているとも読めるようです。

小説冒頭から、イントロのように、田舎の夜の町中を、峠に向かって爆走する暴走族たち奏でるメロディが鳴り響き、これは再三何度も作中に出てきて、これが姿無き兵士たちのように、「音だけの存在」として夜の闇に立ち昇ってきます。その都度、改良されたマフラーの立てるエンジン音が、不思議な劇中効果音の様に聞こえます。

後半、教員室での教師間の小競り合いから、巻き添えを食った同僚の教師「ミス藤井」のマグカップが宙空を飛ぶ、という場面になり、そのマグカップの絵柄から古代アッシリア兵たちの戦いの場面が喚起され、さらには彼らの使用した楔形文字などに小説が意識を集中させてくるあたりのシフト感が、妙に面白かったです。

さらに、ラストでは、「田中」と同室の鈴木と柳田という仲の悪い教員同士が激突する場面。そこからの意識の流れで、姿なき闇の中の兵たち―-暴走族へと再び小説が意識をシフトして、彼らのかき鳴らす音色は、戦いの狂想曲のように消えることなく響き続けるのです。

 

選考委員からは、非常に高い評価を受けての受賞となりました。

絲山秋子氏は、「教員の独身寮」という発想を褒め、また細部にいたっても「小説との約束」を守れていると、技術的な面でも実力を認めているようでした。ただし、

「戦争」にこだわる部分が小説から浮いていたのではないか。(『群像』2009年6月号 選評より)

という言葉を残しています。

けれど、本作が最も中心に据えていたのが、”現代社会における「戦争」”だったのではないかと思うので、これが浮いているということは作者としても、遺憾な思いではないでしょうか。

ただし、本作品は決して社会派小説というのではなくて、あくまでも、その雰囲気を醸している作品、と言えるのだと思います。

同じく選考委員の長嶋有氏は、

心地よい呆れを抱いた。(同上より)

と言って、作者の饒舌さに感心しているようでした。

確かに饒舌で、テンポよく、それでいて抑制の効いた面白い小説でした。

読んでいるうちに、いったいいつの時代の小説だったか、ふと分からなくなる場面もありました。

「組合員」と「組合員」を監視する体制派との対立が、戦争反対論者と特高との関係のようにも見えてきて、なんだか時代を超えて存在する対立構造の骨格を、上手く抽出している、という気がしました。