憂鬱なハスビーン (講談社文庫)

「憂鬱なハスビーン」

 朝比奈 あすか 著

(第49回群像新人文学賞受賞作)

  

 (講談社文庫)

 

 

東大卒で有名企業に就職、というエリートコースの道を歩いていたはずの主人公「私」。

今は結婚を機に仕事を辞めて、失業保険受給者としてハローワークに通う日々。

といっても、夫もまた東大卒の弁護士だから、生活に困窮している訳でもない。だから、同じように失業保険受給の手続きをする列に並んでいたとしても、「社会の落ちこぼれ」と認識している他の失業者たちとは、「私」は違う。自分はただ、払い続けた保険料の正当な回収に来ているだけだと、胸を張ろうとする。

今、「私」を取り囲んでいる世界は、夫と、その母親のれい子さん、それに時々通うハローワークと就職セミナー、同じマンションの主婦との繋がり。

夫は、優しくて好人物。義母であるれ子さんは、切り紙教室の講師などしていて洗練されたカリスマ的な主婦。恵まれていて労働者としての経験がないれい子さんは、「私」とは対照的な側面を持つ一方、丸の内のビルで働いていた経験を持つ「私」に憧れがあるらしく、好意的である。また、同じマンションの主婦も、何故か勝手に友好的で、とても親切な感じ。

なんの不満もあるはずのない環境。もちろん、不満があるはずもない。

けれど、ハローワークで紹介されたセミナーに参加した「私」は、子供時代に成績を競い合ったかつての塾仲間の「熊沢」に再会する。

「私」と熊沢の所属していた塾は、全国でもトップの水準を誇っていて(その名も「TOP」)その中でも階級分けのあった塾内で、熊沢は最上階のクラスでしかも常に1位。つまり、全国で一番頭がいい子供だったはずの、だからいつも「私」の目標で、かつライバルだった男。だが、今の彼は……。

その熊沢が言った”Has been” という言葉が「私」の胸に残る。

”Mr. Has been”――”かつては何者かだったヤツ。そして、もう終わってしまったヤツ”

学歴社会の中で、必死で上位を目指して生きてきた「私」と、今現在の「私」。それを象徴するかのような言葉、それが「ハスビーン」(”Has been”)なのです。

選考委員の松浦寿輝氏は、

題名が悪い(「憂鬱な」などと自分で説明してしまってどうする!)―-(『群像』2006年6月「選評」より)

と、不満を述べながらも、本作を評価しています。

現在の群像新人文学賞の選考委員でもある多和田葉子氏は、本作よりも「無限のしもべ」(木下古栗氏)の方を推薦したようですが、本作自体もきちんと評価されて、

学歴上の階級では上位にあった女性が「労働者階級出身の嫁、主婦という失業者、子供なし」という階級に分類されなおさていく過程をよく描けていた。(同上より)

と、同じく選評で述べられています。

本作品を読んだ私個人の感想としては、作品そのものが「優等生」という印象を受けました。内容が「優等生」を扱っているからと言うのではなくて、小説そのものが「優等生」な印象なのです。これは、作者自身の性格というか持ち味なのかもしれません。

それは、言い換えると、実に丁寧に読みやすくしっかりとした構成力と文章力で、小説を作り上げている。筆先がまっすぐにある方向を捉えていて、だから読んでいて安心できる。そういう印象であること。

同時受賞した木下古栗氏の「無限のしもべ」の、遊び感たっぷりな印象とは対照的で、(もちろん今から10年前に書かれた作品であるという事はあまり考慮していません)ある意味野趣が薄く、少し物足りないという気もしなくはありません。

ただし、一人の女の抱えた精神世界や、その生い立ちから家族関係、今現在の時点に至るまでの経緯など含めて丁寧に書きあげられていて、その結果、地味ですが(地味であることも含めてリアルに)奥行きのある人間像が仕上がっていると思います。

目先の奇を狙うばかりでは絶対に書けない血の通った人間像。それを正統的に地道なやり方で積み上げていく、こうした書く姿勢は、好感が持てる気がします。

また、作中一度しか登場しなくて、その後何処とも知れない彼方に消えてしまった「熊沢」の存在感は、不思議と際立っていたと思います。

周囲の人間に対する差別意識的な主人公の視点だったり、その傲慢さが「憂鬱」感を帯びたときに作品の色調と共に徐々に変わっていくあたりに(変わったのは読者であるこちら側の「私」を見る視点なのでしょうが)、何とも言えない味わいを感じました。

【ご参考に】

※同時受賞作、木下古栗氏の「無限のしもべ」 (→読書感想はこちら)