道化師の蝶 (講談社文庫)「道化師の蝶」円城塔著

(第146回芥川賞受賞作)

”旅の間にしか読めない本があるとよい”。そんな「わたし」の着想を、たまたま飛行機の中で出会ったA・A・エイブラムス氏が本にして『飛行機の中で読むに限る』をヒットさせ、それはシリーズ化される。エイブラムス氏というのは、年中旅客機のエコノミークラスに乗っていて、着想を捕まえることが仕事である。捕まえ方は、銀線細工の技法で編まれた網で捕獲するというもの。彼の名前の由来は、あるとき捕まえた蝶に由来する。珍しい蝶を鱗翅目研究者に見せた所「新種の架空の蝶」だと言われ、模様の奇妙さから「道化師(アルルカン)」そのものだとさらに言われ、「アルレキヌス・アルレキヌス」だと学名を付けられる。その蝶の名前をもらったのだという。

これが、五段階に分かれた小説の第1章になるわけですが、次の章にいくと、第1章の話が丸ごと稀代の多言語作家である友幸友幸の小説、つまり虚構だったと明かされる。小説の題名は『猫の下で読むに限る』 。

友幸友幸は、世界中の様々な国を渡り歩き、住み着いた場所の言語で物語を書く多言作家です。

『猫の下で読むに限るは、無活用ラテン語という特殊な言語で書かれた小説です。

この無活用ラテン語なる言語は、実際に存在していて、ジュゼッペ・ペアノという数学者が発明した人工言語です。ラテン語という「死語」から生まれた「更なる死語」だという記述が出てくるのが興味を引きました。

生きた言語と死んだ言語という組み分けがあるのではなく、あらゆる言語そのものが、どこか魔術めいている得体のしれないもの、という捉え方があるのではないかと思いました。

ここでは、多言作家という奇妙な人物のぼんやりとした肖像を描き、それを追いかけるA・A・エイブラムス氏という構図が描かれていきます。

第3章では、女性刺繍家という、またまた特殊な職業の人物が現れ、彼女は様々な刺繍方を習得しながら世界中を転々としているのですが、その様子はどこか多言作家の友幸友幸にもダブって読めてきます。

新しいステッチの習得と、未知なる言語の習得する過程は似ている。どちらも、複雑で単調であやかしのようです。

このへんあたりから、人が言葉を認識していく過程の複雑な思考網(というかどうかは分かりませんが)のようなものが、ぼんやりと意識されはじめました。

これと刺繍がつくる幾何学模様とが重ねて意識され、エイブラムス氏が着想を捕獲する銀線細工網の由来が明かされたことからそのイメージもさらに重なってきます。

ここまでの過程で、着想や人物像やエピソード、それらに関わるイメージというものが、複雑な入れ子細工みたいに絡まり合っていて、その重層感も「網感」を増幅させていて、幻想的な世界に誘ってくれます。

第4章は5章へのイントロみたいだと思いました。

ここでは、エイブラムス氏の死後も友幸友幸を追い続ける財団に雇われた男が、エージェントとして登場し、受付のカウンターの女性に友幸友幸に関するレポートを提出して帰るまでのシーン。

第5章で、前章の男からレポートを受け取った女が、前出の刺繍家の女を思わせます。

彼女が読み解こうとしているのは友幸友幸の作品として集められて保管されている手芸品なのですが、作品を自分の手によるものだと言っているので、何となくここでも刺繍家の女と友幸友幸の境界線がぼんやりしています

彼女は思考の迷路に迷い込んでいたとき、かつて鱗翅目研究者だったという老人に出逢い、特別な蝶を捕獲できる網を作るよう依頼されます。

女は請け合い、老人はいつの間にかエイブラムス氏が特殊な蝶を持ち込んできた最初の章の場面に戻っていて、そのやり取りの様子を語っていたはずの人物が(おそらくは女刺繍家)が、解き放たれた蝶になって物語は終わります。

ここで思い出して欲しいのですが、エイブラムス氏が鱗翅目研修者の元に特殊な蝶を持ち込んできた最初の章というのは、友幸友幸の小説『猫の下で読むに限る』の中でのことなので、虚構だったはずです。虚構と現実が、始まりと終わりで奇妙な交差をしている、という訳です。

時系列も人物造形も(登場人物の性別さえ)あやふやな線で描かれていて、それが蜘蛛の巣状に複雑になっていて、小説のこうした構造とか組み立て方そのものが、蝶を捕獲する銀線細工の「網」のようで、道化師とは、この小説を操っている円城塔そのものではないのか、とさえ思ってしまいました。

言語というものは世界中にたくさんあって、無数に枝分かれしていたり、別々の起源から派生していたり、別々の起源から派生していてもどこかで繋がって共鳴し合っていたり、と考えてみれば人間の進化の過程で物凄い進化や(時には淘汰)を同時に遂げているわけで、当たり前なことですが、小説はその言語のどれかでは書かれている訳です。その辺りのことを改めで意識して書かれたメタフィクションの王道のような小説、といえるのでしょう。

小説を作っているのは言語である以上、こういう作品が生まれてくるのは必然的なのでしょうが、伏線の張り方や構築の仕方が職人技のように精緻で、文系能と理系能が融和すると、こういう複雑怪奇なものが産まれるんだな、と感心しました。