文學界2016年5月号

「人生のアルバム」渡辺勝也著

(第121回文學界新人賞受賞作)

(『文學界』2016年5月号)

 

百歳まで生きた女性の一生を、誕生から火葬される直前まで毎日欠かさずに撮られた写真から振り返る、というもの。語り手は、女性の親族から膨大な枚数の写真を託された、著名人らしい写真家の男で、これを本として商業的に出版する、ということである。

百年(日数にして3万6525日だという)という膨大な長さや、亡くなった女性の足跡を、写真という媒体を通して辿るのだという試みに、読み始めはかなりワクワクしたものです。なんといっても、その百年という間には、当然大きな戦争があり、そして戦後があり、また幾つもの自然災害や、その他にも実にたくさんの衝撃的な出来事がこの国にはありました。時代はその度に大きく移ろい、人々はその流れを感じて生きてきたはずです。どんなに平凡な人生を送った女性であったとしても、それを徹底的に検証して(あくまでも客観的に)いけば、きっと面白い物語が読み解けるはず……。と、そういう期待は、冒頭部分から回想部へと移行した途端に、小さく縮んでしまいました。

膨大な写真を手にした写真家が、あくまでも写真や残された家族の証言など、限られた手がかりだけを頼りに、ほのかに残る死者の幻影を掬い取っていくのかと思いきや……。

その場に居もしなかったのに何故か理由もなく当事者同士の会話を、さも見ていたように語り出したり、単なる想像でしかないことを、まるで急に「神の目」的な語り口で断定してしまったり、そうかと思うと、こういうことはその場に居なかったので分かりませんが的なことを平然と言ってのけたり……。

選考委員の円城塔さんは、

ミステリとしてなら作法をはずしているが文學界新人賞はミステリの新人賞ではない。(『文學界』2016年5月号 選評より)

といっていますが、本当にそれでいいのでしょうか?

これは作者が企みで意図的にやっているのだとしても、ある程度の整合性はいるようにも思うのですが……。

何よりも、写真自体からの情報を重視しないでどこからやってきたのか分からい事実関係がいきなり飛び出してくるのですから、そうするとそもそも写真である必要なんてどこにあるんでしょうか?

選考委員の吉田修一さんは、ここのところを以下のように指摘されています。

写真に写ったものから何かを推理するのではなく、物語を(勝手に)作ってしまうのだ。勝手に作っていいのなら、別に写真いらなくないか?(上記同より)

全く同感であります。なお、そのようにして勝手に造られた一人の女性の人生物語が、余りにも精彩がなく既視感だらけで、お粗末と言われても仕方ない仕上がりになっていて、残念な上に残念です。

恐らくですが、この作品はアイデアありきで書きはじめられ、作者は最初に思いついた百年間一日も欠かさず写真を撮り続けられた女性、というイメージだけのものに捕らわれてしまって、そこに薄い知識しか持ち合わせていない戦前戦後から連なる一時代の背景を克明に描くことすら出来ず、難題を避ける為に、適当なところを適当に帳尻を合わせた尤もらしい物語だけをはめ込んでいった。そうして出来上がった、一人の女性像。意地の悪い言い方かもしれませんが、そのようにしかどうしても読むことが出来ませんでした。私の読解力や想像力が足りないのかも知れませんが……。

選考委員の中で、吉田修一さんと松浦理英子さんはかなり否定的でしたが(「十年早い」と松浦さんが言われているのが印象的でした)、円城塔さんと川上未映子さんからは評価されて、綿矢りささんはなんとなく中立的な意見だったので、砂川文次さんの「市街戦」と共に同時受賞となったようです。

批判的なことを書き過ぎましたので、公平を期すために、本作品を評価された両二名氏のご意見と、綿矢さんのご意見も下記にご紹介させてもらいます。

(川上未映子氏)

候補作の中でこの作品だけが虚構を書くということと構造を意識し、企みと試みを感じさせるものだった。(上記同より)

 

(円城塔氏)

百科事典を引いてきたような事項の羅列であるとも見えるが、過多な情報を前提として、今は語ることのできない一人の人物像を作り上げる試みとして評価した。--(略)--前衛がありふれたものとしてみなされていくのは当然の流れとして、しかしこの先、Wikipedia型の小説などが発達すると、過渡期の作品と見られるようになるかも知れない。(上記同より)

 

(綿矢りさ氏)

これほど作り込まれている物語もめずらしく、完成度は高い。(上記同)

円城塔さんのいう「Wikipedia型の小説」というものは興味深いかもしれません。円城さんの頭の中には、もしかすると既にもっと完成された形で、そういう物語の構成があるのかもしれません。

川上未映子さんが「虚構を書くということと構造」や「企みと試み」を意識されている点も、注視するべきだと思います。本作品にそれがあるというのなら、やはり小説を書く上では参考になるはずですから。

なお、綿矢さんの「完成度は高い」には含みがあって、「読み手が個人的に感慨にふけられるよう、余地を残しておいてほしかった」という前置きの後、この言葉を記しています。