吾輩ハ猫ニナル

吾輩ハ猫ニナル

横山 悠太 著

/講談社出版

 

 

題名からして察せられるように、これは夏目漱石の有名な小説のパロディーであり、オマージュの込められた作品です。

『日本語を勉強する中国人の為の小説』という設定でこの小説は書かれているのですが、小説を書きはじめるに至るまでの経緯を説明するくだりが前置き的にあり、さて小説が始まってみると、実に奇妙な感覚に捕らわれてしまいます。というのも、見慣れた日本語なのに、いつもとは違う、(中にはちょっと難しい)漢字が当てられた語句がふんだんに出てくるからなのです。

例)嘴(くち)、被褥(ふとん)、馬路(とおり)、水果(くだもの)、随意(むぞうさ)etc……

もちろんそこにルビがちゃんと振ってあるから読めますし理解も出来るのですが、それでも何だか混乱します。そのうえ、カタカナが苦手だという中国人の為に書かれているのですから、カタカナ表記には漢字表記が当てられ、そこにルビとしてカタカナが振られる(結局、カタカナは使用されるのです)という配慮がなされています。

例)洗髪露(シャンプー)、瀝青路(アスファルト)、手機(ケータイ)、雷帝・嘎嘎(レディー・ガガ)etc……

これほどカタカナを漢字変換しているにも関わらず、題名にしっかりカタカナを入れてきてるってどういうことでしょうか?

そうです。この小説は、題名からして既にふざけています。言葉というものを使って、小説を遊んでいるのです。ただの言葉遊びではなく、小説全体を構成から貫いて遊んでいます。選考委員の青山七恵さんは、この作者の仕掛けた遊びに、

読み終えた直後は「呆然」のあとに「自失」までついてしまいそうだった。(群像2014年6月号、選評より)

と言っています。それは、少し鼻につくくらいのもったいぶった冒頭からはじまって、途中何度もイライラするような字面の読みにくさを乗り越えさせられた読者が遭遇する、秋葉原での「思いがけないバカバカしいラスト」という企みが効いているからです。

正直、私も一読した時には青山さんと同じ感想を持ちました。それどころか、とてもこのラストのバカバカしさに付いていけないし、許容できないと感じました。

ところが不思議なことなのですが、かなり時間を置いて再読してみると、今度は妙に「面白い」と感じてしまったのでした。この変化はいったい何だろう、と自分でも不可解でしたが、おそらく、一読した時にはまだ読んでいなかった「さようなら、オレンジ」という岩城けいさんの小説が挟まったからだ、と理解しました。

太宰治賞を受賞した岩城さんの「さようなら、オレンジ」は、もちろん言葉遊びをやらかしている小説ではありませんが、母国語(日本語)と英語という二つの言葉の間にある障壁や、関係性をテーマにしていて、これは実は当作品でいうところの日本語と中国語、という二国間の言葉の関係性とも重なるものがあるのだと気づいたのです。しかも当作品は、「言葉」を遊んでいるだけではなく、二つの言語を持つ文化を、「言葉」そのものから繋げようとした、あるいは再構築しようとした、一つの試みではないのか、と思えて来たのです。

そう言えば、小説中でモデムのことを「猫」と表記されていました。つまり、マウスは鼠ですが、中国ではモデムはどうも「猫」で通じるようなのです。モデムとはパソコン用語で「変調復調装置」などと呼ばれているみたいですが、要するに「アナログ信号とデジタル信号を相互変換する機械」のことです。作中、読みなれない漢字をカタカナだったり平仮名だったり、読みなれた日本語の表記だったりに自動変換する作業を頭の中で何度もやらされました。つまりこれは、読者である私たちの頭の切り替えをモデム(猫)という比喩で捉え、「吾輩ハ猫ニナル」の「吾輩」とは、読んでるこちら側でもあるという、そういう企みではないか、などと確信しました。そう考えると、この小説は、「『日本語を勉強する中国人の為に書いた』とされる小説を読む日本人読者の為の本」と根底からスタンスを言語変換しても良いのではないかな、とも考えるに至り、そうしてこんなにも複雑な悪だくみを作中に仕込んでほくそ笑んでいる作者の小説的言語センスに、改めて驚いたのでした。

もう一つ、この小説の面白さは、現代中国のリアルな言語感と、現代日本社会のリアルがちゃんと捉えられていて、しかもそれらが言語混在化という奇妙な表現方法で、二国間の交流する接着点(モデム地点?)でのリアル感がさらに表現されているというところです。

……と、こんなわけの分からないようなことをいくら書いてみたところで、まだ読んでいない方には無駄な紹介文でしまありませんよね(汗)。この二国間言語の融合された言語感の魅力は、ぜひ作品に触れて感じていただきたいと思います。

なお、小説中には「吾輩は猫である」以外にも、漱石の小説のパロディー的な場面が出てきます。敢えて明かしませんが、こちらもぜひ作品を一読されて、探してみてください。