群像 2011年 06月号 [雑誌]「美しい私の顔」

  中納直子著

(『群像』2011年6月号掲載)

 

 

家具屋で働いている、ごく普通の若くて(おそらく可愛らしい外見の)女性が、仕事や職場の人間関係などの疲れから顔面神経麻痺に罹ってしまう話。これを単なる闘病記に近いものだとする意見もあるようですが、作者の意図はもっと違う所にあるようです。

実際、読んでみると、若い女性の素直でありのままの心情の吐露が延々続いていく作風で、読み始めはあまり文章がスムーズに感じられずに苛ついたのですが、少しすると、ああ、こんなテンポで考えたり、こんな風に思考が挟まって、そこから繋がってまた流れていったりするのが普通だな。これは、本当にリアルな若い女性の内側を表現できている、と思え出し、そこから好感が持てるようになりました。何よりも好感が持てるのは、余計なものが何もない所です、選考委員の長嶋有さんは、次のようにそれを評しています。

顔面の変形から、その外側でなく内面にある世界の崩れていく様を丹念に描く。そのこと以外にほぼ余計なことをせず、いわば一点突破を試みている――(『群像』2011年6月号 選評より)

「顔面」という表面的なものが崩れると(作中では左半分が雪崩のようにくずれて反応しなくなるという恐ろしい状態でした)その内面が崩壊する、という恐怖。

この恐怖と対峙した時、「私」は改めて「心」というものに気付き、それについて考えてみます。

――どこかに目の見えない人ばかりで鏡すらない村があって、そこで誰の視線も気にせずにただただ自分の心ひとつで生きていきたい。心だけならば。美しいと思うその心は、一体どこにどういう風にして存在しているのだろう――(「美しい私の顔」より)

この作品のもう一つのポイントは、外界との接触です。

自分とは少しずれた感覚を持つ同居する姉、婚約者でありながらどこか冷たい恋人、職場の同僚や上司などとの面倒くさい人間関係などが、実に上手に描かれていて(若い女性のリアルな語り口がここで効いています)、正常な顔面を喪失した後も、これらは終わることがありません。外界は、相変わらず何らかの接触を私に求めてきます。ただし、以前とは明らかに何かが変わっていて、「私」はこの変化からなにか大事なことを受け取っています。この部分にもう少し強く光を当てて広げていれば、「単なる闘病記に近い」なんて誰にも言われない、もっと強度をもった作品になっていたのではないか……と考えると、少し残念な気がします。

作品の良質さに比べて、どこか評価の低く見積もられた感のする一作で、静かで強かな企みを秘めているこの作家に、今後も注目していきたいと思いました。